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持続可能な生き方

2014年8月3日 CATEGORY - 代表ブログ

里山資本主義

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さん、こんにちは。

里山資本主義」という本を読みました。手に取った時点では、いわゆる「田舎暮らしのすすめ」的なものかなと軽い気持ちでしたが、読み進めるにしたがって実はそう単純な話ではないということが分かり、どんどん引き付けられていきました。

この本の冒頭、いわゆる東京のモーレツサラリーマンの生活の描写が印象的です。

「『マネー資本主義』に染まり切った生活。もっと稼がなきゃ、もっと評価されなきゃと猛烈に働らく。必然、仕事から帰って寝るだけの生活。よって、自分で食事や洗濯もできず、「マネー」で解決。もらっている給料はそこそこ高いかもしれないが、その生活を支える支出が多く、手元には残らない。しかし、このようないびつな生活が、「マネー資本主義」を支えるはなくてはならない存在なのだ。」

このような生活におさらばするための「田舎暮らしのすすめ」的な解説書が世の中にはあふれています。そして、中には上手におさらばできる人もいますが、大部分は、、、というところが現実かも知れません。

私は、田舎に育って、東京で学び、そして今、再び田舎で生活をしています。ですから、東京の便利さに浸りきった人が、田舎暮らしに一瞬憧れたとしても、それはあくまでも「一瞬の憧れ」に過ぎず、現実を目の前に目が覚めるというケースが多いことが良く分かります。

ですから、はっきり言って「田舎暮らしのすすめ」は危険で無責任な考えになりがちだと思っています。しかし、繰り返しになりますが、本書は決してこの類の単純な東京の人間に対する「田舎暮らしのすすめ」ではありません。

本書は、過疎の地域でポジティブに生きる人々の輝きを前面に押し出します。そして、それに「持続可能性」というキーワードを伴わせることで、「マネー資本主義」という経済の「メインシステム」をバックアップする「サブシステム」として認知させようという意図が感じられます。

その背景には「子孫に申し訳の立つ生き方してますか?」という非常に深いテーマがあるため、説得力が非常に高められています。

本書では、この説得力が高すぎで、著者はあくまでも「マネー資本主義」という経済を「メインシステム」として据え置いているのですが、何度も上記のような鋭い問いかけによって「サブシステム」の重要性を説くものですから、いつの間にか「メインシステム」の継続可能性について心配になってきてしまうのです。例えば、以下のような文章からもその「メインシステム」に対する心配を助長し、「サブシステム」の重要性を否が応でも認識させられます。

「日本人の多くが不安に思う年金制度。どうしたら年金制度の心配をせずに生きていけるのか。それは簡単なことだ。お金のかからない生活、自分で食べるものをできるだけ自分でまかない、現金による支出を最小限にすればよい。もちろん完全には無理だろう。しかし、その日の夕食を海に釣糸を垂らして得るような暮らしを年金に頼る暮らしの『サブシステム』として組み入れることはできるはず。これが里山資本主義である。」

このことの意味は以下の短い文で集約されると思います。

「生きることのすべてが自分の手の届かない大きなシステムの中に完全に組み込まれるというリスクを認識しなければならない。」

極めつけは、オーストリアの林業保護によるエネルギーの自給自足政策についての言及です。

「森林が一年に成長する範囲内でのみエネルギーとして消費することを徹底する。つまり、これは元本に手を付けず利子の範囲でやりくりすることに他ならない。化石燃料を使い切ってしまうやり方は元本を食いつぶして生活することであり、子孫に対して申し訳が立たない。」

現在の経済の常識は「子孫に対して申し訳が立たない」ことを当たり前の「メインシステム」として機能させています。20世紀は「持続可能性」について意識する必要はそれほどありませんでした。資源を必要とする国は一部の先進国に限定されていたからです。そして、その延長線上に現在の「メインシステム」は存在していることになります。

しかし、21世紀の現在では世界中の国が「マネー資本主義」のプレーヤーとなりそのすべての国が確実に「持続可能性」について意識しなければ「子孫に対して申し訳が立たない」ことになってしまっているのです。

繰り返しになりますが、本書の前提は「マネー資本主義」がメインシステムで「里山資本主義」はサブシステムです。しかし、そう遠くない時期にこのメインとサブの入れ替えが避けられない事態になる可能性は誰も否定できないということを本書を通して思い知らされた気がします。