日本人と英語

日本人の外国語は日本人の責任で その1

2015年5月31日 CATEGORY - 日本人と英語

世界と日本

 

 

 

 

 

 

 

以前に書籍紹介ブログにおいて「アメリカを知るための英語、離れるための英語」という本を紹介しましたが、その本の中で日本人の英語教育にとって非常に大切だと思われるくだりがありましたので以下にその部分を抜き出します。

「結局、日本人がどうやって外国語を勉強をしたらいいかは、最終的には日本人が考えなければいけないことなのです。外国人からこうしなさいと言われたり、どうしましょうとお伺いをしてはダメなんです。それはなぜかというと、日本人というのが言語という問題に関しては非常に変わっているからなのです。(中略)なぜ変わっているかというと、日本は半世紀前アメリカに一時占領されるまで一度も異民族、異文化に支配された経験がなく、兎に角、外の経験がないから。日本以外の国と比較して、異民族によって蹂躙された経験がないから、自分を強く見せる必要がない。そのため、自分について非常に消極的、否定的、つまり日本人は常に『私なんぞ』といって、自己を否定して、外にあるものを常にすぐれたものとして素直に吸収することを続けて来れたのです。それによって、千数百年の間、外国の知識・文化をひたすら学び続けました。日本人にとって言語はそれらを吸収するための媒体に過ぎなかったのです。(中略)1964年を境に日本が外国を見習い外国を追いかけるタイプの途上国から、反対に外国から追われる大国へと変わったのです。もう世界には日本が全力で入れあげる優れた文明がなくなり、日本は逆に世界から学ばれる立場になってしまったのです。(一部加筆修正)」

日本人と外国語の関係を歴史的背景からズバリと言い当てていると思います。

このような言語との付き合いを千数百年も前からしている「特殊」な我々にとって、いわゆる日本以外の世界で「一般的」とされるような学習方法を取り入れても効果など期待できるはずもありません。

ですから、「今までの訳読中心の伝統的日本の英語教育が駄目だから、ALTにお任せしなくてはならない。」などといって大量に日本の情報を全く持たない外国人を雇い入れ、彼らに日本人の英語教育を任せるなど、愚の骨頂以外の何物でもないのです。

日本人は、1964年を境として、それよりも前の段階においては、最も効率的な外国語学習方法を「自ら」開発し、実践し、そして最大限の効果を発揮してきました。しかし、残念なのは、それ以降、上記のように事情が変わったにもかかわらず、その事情に合った方法を開発せず、従来型のやり方でずっと来てしまったことです。しかもその挙句に、ようやくまずいと思ったところで、その事情の背景などを分析することもなく、安易に「ALTにお任せ」的なオーラル中心に舵を切ってしまいました。

このことによって、日本人は、自ら開発した旧来の方法の良い面(英文法・語彙の体系的知識)と悪い面(記憶のみさせ、実践を無視)のうち、悪い面のみを取り上げ、良い面までも含めて一緒くたに断罪することで、体系的知識を得る機会を失わせつつあります。そして、上述のように、体系的知識という基礎部分をないがしろにする方向に舵をきってしまった問題など知る由もない「普通」の外国人にオーラルトレーニングを丸投げするような砂上の楼閣的学習法に陥ってしまっているような気がしてなりません。

日本人はこの問題と正面から向き合って自らの問題を自らで解決する必要があると思います。

「結局、日本人がどうやって外国語を勉強をしたらいいかは、最終的には日本人が考えなければいけないことなのです。」

この言葉を日本人として今一度、胸に刻もうと思います。

 

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