日本人と英語

「グローカル」の本当の意味

2018年3月7日 CATEGORY - 日本人と英語

前回に引き続き、「おとなの英語力」からテーマをいただいて書いていこうと思います。

第二回目の今回は、「グローカル」の意味についてです。

日本語のような主観的言語と英語のような客観的言語との一番大きな違いは、その言葉によってつくられる文章が、前者は具体的に過ぎ、共通認識を持った人間の間でないと理解されにくいのに対し、後者は具体的なものを一般的表現にすることで、共通認識を持たない他者にも理解されやすくするという「工夫」を加えた歴史があるということのようです。

西暦1500年より前の時代には英語も日本語と同様に、共通認識を持った人間の間でないと理解されにくい主観的な言語であったものを、それ以降、英語には、自分とは異なる他者一般にも通じさせようと努力したその言語としての蓄積があると考えるべきです。

ですから、イギリスで話される英語には確実に、その変遷の歴史が内蔵されていると理解するべきかもあしれません。

ですが、アメリカで話されている英語は、そのような努力による変化が終わった後で使われ始めたものであるととらえることができます。

そのため、イギリス人の方がいい意味でも悪い意味でも、主観的、すなわち「言外」の意味というものを言葉に込める一方で、アメリカ人は、言ったことがすべてというような超客観的な英語を使うという違いをなんとなく感じることができるような気がします。

その意味で、現在の「グローバル」の流れを作ったのは、アメリカの英語だというのが正しいように思います。

このことをもう少し深く考えてみると、「グローバル」とは正反対の超主観的な言語である日本語を使う私たち日本人には必ずしもデメリットばかりではないのではないかと思えてくるのです。

それは、ランゲッジ・ヴィレッジにおいて文法講座を教えている時に強く感じることですが、英語の文法に日本語にはない体系的な仕組みを見出すことで、日本語の思考の中で、英語の客観性を理解することで非常に大きなカルチャーショックを受けることができることです。

おそらく、そのことを日本語の思考の中で気づかされた日本人は、ある意味、英語だけで考えるアメリカ人よりもその重要性を「客観的」に理解できるような気がします。

それは、マイナーな言語を母国語に持ちつつ、メジャーな言語を学ぶことで、その両方の考え方を客観的にとらえることの価値です。

これこそが、「グローカル」という言葉の本質的意味なのだと思います。

 

 

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