日本人と英語

「分かっているだろう」の論理

2017年3月26日 CATEGORY - 日本人と英語

前回に引き続き、「日本語の論理」から印象深かったトピックを取り上げてご紹介したいと思います。

それは、「日本人は身近な人間とほど言語コミュニケーションを取りにくい」という性質についてです。

この感覚、私は非常によく分かります。

私は、会社内では父が上司で、兄弟が部下という形で、常に身内と他人がおりますので、その中でのコミュニケーションに関して、上記の性質を頻繁に自覚しています。

極端な話、同じ部屋に身内と普通の従業員さんがいたとして、従業員さんに対しては「おはようございます」と自然と口から出てくるのに、身内に対してはとてもぎこちなくなってしまうのです。

これの感覚は、それこそ「なんとなく」感じていたことなのですが、今回本書ではそのあたりのことが言語化されていたので非常に興味深く読ませていただきました。

「一歩一歩論理を積み上げていく欧米の言語と比較して日本語は、要所要所を抑えながら飛んでいくように、途中のことはあまりうるさく言わない。要点だけで全体を理解している。したがって、もし誤解が起こるととんでもないことになる。ことに親しい人間同士の間では、いつも大変大きな飛躍をお互いに許しあっている。以心伝心、腹芸のごときものである。仮にそこで、相手がこちらの要点を踏み外したりすることがあれば、その誤解を救うものはもう何もなくなる。一生続くかもしれない深刻な対立、不和が起こることになる。このように生じた親子の間の不和、誤解などというものは簡単には解けないのであって、論理を尽くす言葉、対立を解消させる欧米の言葉ではいくらかの役に立つのかもしれないが、日本語ではそういう時に話し合う言葉がない。」

つまり、日本語には、言葉にしなくても「分かっているだろう」の論理があるということです。

その論理があるのですから、特に身近な関係においては、言葉にすること自体、「野暮」ですし、「仰々しい」ですし、「気恥ずかしい」のです。

この説明を受けて、長年のもやもやした感覚が一気に氷解したような感動を覚えました。

ですが、それは同時にそのコミュニケーションはものすごく濃厚な信頼関係の上に成り立っているので、万が一、その「分かっているだろう」はずのことが実は分かっていなかったことによって生じる問題は、低い信頼関係の上に成り立っている言語を駆使して行うコミュニケーションにおいては考えられないような大きなものとなってしまうという点はしっかりと日本人としては理解しておくべきところだと思いました。

世の中の「相続争い」「骨肉の争い」というようなものは、まさしく一度起こってしまってからはどんなに言語を駆使して、論理的に解決しようとしても難しいことはよく言われることです。

日本語は、「分かっているだろう」の論理であって、それが崩れてしまった場合は、「話せばわかる」の論理は存在しないということをしっかりと胸に刻んでおくべきでしょう。

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