日本人と英語

帰国子女問題の本質

2015年2月1日 CATEGORY - 日本人と英語

帰国子女

 

 

 

 

 

 

先日書籍紹介でご紹介した「「学ぶ」から「使う」外国語へ」の中で、いわゆる「帰国子女」の問題について考える箇所がありました。

以前にもこの問題は「子どもに英語を教えるな」をご紹介する中で触れたテーマではありますが、今回再びこの問題について考えてみたいと思います。

そもそも、この「帰国子女」なる言葉自体が実にあいまいです。

実際、著者も「『帰国子女』というのは二十世紀後半の、まさに『幻』の日本語だと思う。こんな言葉がふらふらと独り歩きしている日本社会に、国際もグローバルもない。」と言っています。

普通に考えれば、「帰国子女」という日本語の英語訳「returner」すなわち海外における長期の滞在を経て日本に帰国した日本人子女という具合になると思われますが、実際の「帰国子女」という日本語の語感には、英語の「returner」にはない何か特別なものがあることは事実です。

その「何か特別なもの」の影響は彼らが、日本において就職活動をするときに顕在化することが多いようです。

具体的には、彼らの「英語ができる」という武器を持った「帰国子女」という経歴が、不利な経歴として扱われる可能性すら指摘されるようになってきているようです。それは、現在の日本では、「英語ができる」ということがビジネスマンとしての強い武器になるという共通した認識があるにもかかわらずです。

「常識がない(日本の文化や対人関係を理解していない)」

「自己主張が強い(強すぎる)」

など、その批判の対象になる「帰国子女」の性質はよく言われることですが、著者はこれらはそれほど大した問題ではないと言います。曰く、「これらは単なる「異文化」の問題で、日本に来たての外国人の子供に対して普通の日本人が感じるのと同じでどこの国にだってこのような現象はあるわけで、こんなものはそれが「異文化」の問題であるならば、数か月もたたないうちに収まってしまう。」

問題なのは、「異文化」ではなく、「無文化」の問題だと言います。

続けて曰く、「現地に本格的に住み着いて現地の人間と日常環境を共にすれば別だが、日本の帰国子女の大方は、どんなに現地語が上手になっても『お客さん』でしかない。異文化というのは二つ以上の異なる文化が重なり合って生まれるものだが、帰国子女の一部、というよりはかなりの部分が体験している環境は、文化と文化の谷間、いわば『無文化』の世界である。アメリカでありながら、本当のアメリカではない、日本でありながら、本当の日本ではないという、無風の世界である。それによってそのどちらにも、自分のアイデンティティの基盤さえ見つけられないでいる若者も実に多いのである。」

実はこの問題は「日本語」の問題とも重なっているようです。

「外国生活の間に、日本人としてきちんとした異文化体験をしてきた若者は、日本語もキチンとしている。無文化の中でだらだらと過ごした人間は、日本語も不完全である。彼らはコミュニケーション手段としての外国語しか身に着けていないからである。英語であれ、日本語であれ、どちらかの言語に文化の背景があればそれで十分であるが、彼らにはどちらの言語でもそれが不足している。」

そして、これらの責任を著者は「無文化の問題と日本語の問題の責任はともに親にある。」と厳しく断罪しています。

このことは、以前に「子どもに英語を教えるな」をご紹介する中で触れたテーマ「セミリンガル」の問題と根本は同じかもしれません。いみじくも、本書の著者市川氏は以下のように指摘していました。

「そのリスクとは、英語と日本語も日常会話言語レベルでは理解できるが、抽象的、論理的レベルでは両方とも不完全な「セミリンガル」状態、すなわち日本語でも英語でも深い思考を行うことができないという取り返しのつかない思考状態を作り出してしまうことです。」

この点からも、日本人として英語と付き合う上でのあるべき姿勢というものは、「日本人としてのアイデンティティと深い日本語による思考のベースの獲得をした上で、あくまでも『道具としての英語』を身に着ける」ことだと改めて肝に銘じるべきだと感じました。