日本人と英語

日本人の英語に対する萎縮の根源

2014年3月2日 CATEGORY - 日本人と英語

まずはこのCMをご覧ください。

日清カップヌードルは非常に面白い世相を切り取ったCMをするな~といつも感心していたのですが、このバージョンには非常に考えさせられました。

かなりの日本人は、この非常にデフォルメされた日本人の英語もしくはネイティブ外国人に対する接し方を笑ってはみるものの、心からバカにできないという微妙な気持ちを持つのではないでしょうか。

おそらく、私も大学時代海外留学をする前まではこのCMに出てくる日本人の一人だったと思います。

そして、もう一つ私には、このことを心から笑えない経験があるのです。

それも、留学前すなわち、今から15~6年前の大学1~2年生のころ、時代はコンピューターがかなり普及してきたころです。ちょうど、メールに文書や画像添付などしてやり取りするということが当たり前になりつつあったころです。

私は今では仕事で必要ですから、時にはグラフィックのソフトなども使うくらいになりましたが、根本的には超アナログ人間です。

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このころの大学生としては非常に珍しく、レポート提出はすべて「手書き」でした。今では考えられないでしょうが、大学の先生でもレポートや論文提出に関して「手書き容認」派が体感的には30~40%位いらっしゃったと思います。

ですから、私の講座選択にかかる最優先条件はこの「手書き容認」だったのです。ですから、30~40%しかない講座の中から選択しなければならず、自分の興味などとはかけ離れた選択をせざるを得ないという本末転倒ぶりで、滑稽以外の何物でもなかったと思います。

しかも、本当に過渡期だったこともあり、初めは手書き容認だったのにもかかわらず、講座の途中で「レポートはメールで提出するように。」などと方針転換する先生もいました。このような中で何とか進級できたのは奇跡に近いと言えるかもしれません。この時の私は、このCMの中の突然社長に「本日よりわが社の公用語は英語にします!」と言われてしまった日本人そのものだったと思います。(笑)

でも、現在では私は英語はもちろんですが、コンピューターのリテラシーにしても何とか克服し、人並みには活用できるようになっています。この問題についてもアメリカに留学したことが克服のきっかけとなりました。

当時のアメリカの大学はすでに日本の大学と違って、過渡期ではなく「手書き容認」派は完全にゼロでしたから、否が応でもレポート提出はPCを使って行わなければなりませんでした。

つまり、私はこの留学を機に英語とコンピューターリテラシーの両方を一度に生活の一部としなければ生きていけない状況に追い込まれてしまったのです。

この経験から言えることとして、新しい技術や能力を身につけるために必要なことは、①「使う必要に迫られること」と②「それを継続的に使う環境を獲得すること」の二つだけだということです。

日本人はもともと脳の構造が英語に向いていないなどということはなく、私の脳もコンピューターの使用に適していないなどということではないのです。

この社会問題とまで言われる日本人の英語への萎縮の根源は単に「身近でないものに対するおそれ」に過ぎないということは私にはこの二つの経験から痛い程よく分かります。

現在、日本人を取り巻く状況を見てみると、①「使う必要に迫られること」に関しては期せずしてでしょうが、「グローバル化」によって急激に迫られるようになってきました。それに対して、②「それを継続的に使う環境を獲得すること」ですが、①の迫り方のスピードにその環境はなかなか追いついていないように見えます。

もちろん、そこが私たちランゲッジ・ヴィレッジの他との差別化という競争力の源泉になっているといえるのですが。

ですから、この環境の提供をもっと充実させ、もっと多くの方々に対して行うことができるようにすることが私たちに課せられた使命だと思ってこれからも頑張ってまいります。

 

 

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