日本人と英語

日本語は手触りの言葉

2016年8月12日 CATEGORY - 日本人と英語

手触り

前回は、日本語と英語の論理の違いからくる、日本人の英語の学習にあたっての困難性として、「受身」の表現について深く考えてみました。今回は、もう一つの困難性として、手触りの表現、すなわち身体的比喩表現について見てみます。

ランゲッジ・ヴィレッジのウェブサイトでは、「こういう日本語表現はなかなか辞書では調べにくいけど、英語ではなんというのだろう」という表現を集めて辞書のような形でご紹介する「しなやか英語辞典」というコーナーを設けています。

「うずうず」「しみじみ」「清々(せいせい)」「うっかり」など、感覚的な言葉を英語に直そうとすると、本当に困ってしまいます。だからこそ、私はこのようなコーナーをネタとして作ったわけですが。

何とか、このコーナーの中で英語としていわゆる「気の利いた」表現を見つけ出そうと努力しているのですが、最終的に「うっかり=careless 」などと言う何とも味気のない結果に終わることも珍しくありません。

私は、従来日本語のこれらの語彙の豊富さに比べ、英語の語彙の貧弱性について、日本語の英語に対する優位性を感じていました。特に、文学の世界においてはその差が大きく出るであろうと強く思っており、英語の小説などは、淡泊すぎて面白みに欠けるであろうと思っていました。

しかし、本書を読むことで、その認識は少し違うのかもしれないと気づかされることになりました。

以下、印象的だった部分を引用します。

「日本のように精神が感性的自然(自然というのは無論人間の身体も含めて言うのだが)から分化独立していないところではそれだけ精神の媒介力が弱いからフィクションそれ自体の内面的統一性を持たず、個々バラバラな感覚的経験に引きずり回される結果になる。」

「万国博の展示物に触りたがる日本人があまりに多いので、慌てて囲いを作ったなどと言う話が新聞に出ていたが、アメリカ館のガイドをしていた学生に聞いてみると、兎に角日本人は何にでも触るのには驚かされたそうである。この話は、きわめて日本的な心情というべきである。このような心情を持つ日本人は日本語の中に、身体的比喩機能として、頭・顔・目から骨・肉・肌・血に至るまで身体の諸器官の名称が比喩としていくつもあげられる。これは、『国語の文字通りの具体性、身体性』と呼んでいる。」

上記の通り、私は、日本語の身体的な比喩を使った表現の豊富さに対して、英語の貧弱さをそのまま、日本語の英語に対する優位性として捉えてしまった節があります。

ところが、今回本書によって、「日本のように精神が感性的自然から分化独立していないところではそれだけ精神の媒介力が弱く個々バラバラな感覚的経験に引きずり回される」というような、むしろ日本語の英語に対する劣後性の証拠として捉えられるという見方があることに気づかされました。

著者が指摘する様に、人間の精神の発達が、具体から抽象に昇華させることによってなされてきたという歴史を考えると、そのような見方にも納得する要素はあるような気もします。

しかし、個人的には、「うっかり」という事象を「careless 」という単語で包括してしまわざるを得ない抽象性というのは、何ともつまらないことだと感じてしまう自分も存在するのは確かです。

やはり、そこは日本語を母国語として使用する日本人の本能と捉えるべきでしょうか。

 

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