日本人と英語

英語学習の歴史は繰り返す

2017年7月14日 CATEGORY - 日本人と英語

先日書籍紹介ブログにてご紹介した「英語襲来と日本人」から一つトピックを抽出して書いてみようと思います。

そのトピックとは、「英語学習の歴史は繰り返す」という真理です。

本書においては、日本人の英語との初めての出会いから現在に至るまで、それぞれの環境と条件の違いごとに生じる英語との触れ合い方とその習得成果を時系列に明らかにされています。

このブログでも何度もご紹介してきているように、現在、日本の英語教育はかなり極端な勢いで「コミュニケーション」を重視した方向にシフトしています。

それは、今までの日本の教育が、「文法重視」であった結果、日本の英語教育を受けても英語で「コミュニケーション」をとることができる人間を作ることができなかったという「反省」に基づいてのことだと考えられます。

著者が挑戦しているのは、現在の日本の英語教育の進む方向性が、日本の英語受容史の中ですでに試され、機能しないという「結果」が明らかになっているものであることを引き出すことで、なんとかその方向性を本来あるべき方向に修正しようとすることです。

本書では、日本の英語受容史の中において二つのタイプの有名人が取り上げられています。

一つ目のタイプは、「コミュニケーション」を重視した教育によって英語を身に付けたケース、そして二つ目のタイプは、文法学習をしっかりと行い、英語を分析的に身に付けたケースです。

前者として取り上げられたのが、ジョン万次郎。

彼は、土佐の漁師の子として生まれ、14歳の時に漁の最中に嵐にあい漂流したところをアメリカの捕鯨船に助けられアメリカに渡りました。その船長の家にホームステイさせてもらった上に正規の教育まで受けさせられるという幸運に恵まれました。

つまり、偶発的な原因によって、日本語を全く介さないイマ―ジョン教育を受けることになったのです。

7年ののち彼は日本に戻り、その後、開成学校の「二等」教授として英語を教えています。

後者として取り上げられたのは、森山栄之助、堀達之助といったオランダ通詞や福沢諭吉など、蘭学を徹底的に行った後に英語に触れた人々です。

蘭学は、オランダ語を文法的に分析して、その言語を研究することを通じて西洋の知識を日本に導入しようとする学問です。ですから、ジョン万次郎がイマ―ジョン教育を受けたのに対して、彼らは、「文法重視」「長文読解」重視の教育を受けていたといえます。

この両者のうち、どちらが英語の受容を通じた日本の近代化に貢献が大きかったかはもはや明らかでしょう。前者は、「二等」教授にとどまり、後者は日本の近代史にその名を轟かせているのですから。

この両者を比較することで分かることは、「いきなり未知の言語の大海を泳いで身に付けた語学力は、それを体系化することが難しい」ということです。

特に、構造的にかけ離れた日本語と英語という言語間においてはなおさらです。

おそらく、いわゆる「コミュニケーション」という部分に限って言えば、後者の人々よりジョン万次郎のほうがうまかった可能性は否定できません。しかし、ジョン万次郎が偶発的に受けた日本語を全く介さないイマ―ジョン教育の程度を考えれば、その比較は日本の英語教育を考える上では無意味です。

その上、日本語と英語の構造的距離、英語教育に許容される時間そして実現可能な英語学習の環境を総合的に勘案した上で、すでに試された事実から学ぼうとすれば、日本の英語教育が進むべき道はどの方向なのか、このことを著者は本書において、詳細な資料を基に日本の英語受容史を紐解くことで私たちに気が付かせようとしているのだと確信しました。

正論をかたくなに貫こうとする中で、このような歴史を持ち出すというのは、非常に説得力のある切り口だと思います。

なぜなら、歴史は繰り返すからです。