日本人と英語

言語の「正しさ」からの逸脱許容度

2015年3月29日 CATEGORY - 日本人と英語

許容度

 

 

 

 

 

 

 前回に引き続いて「私の外国語習得法」からの引用です。

この本の中に~ドイツ語圏の学習者の立場から~という副題で、スイス人日本文化研究者であるペーテル・アッケルマン氏の日本語の習得法に関する記述がありました。

「『外国人が日本語を学ぶ』というプロセスの中に、日本人が外国語を学ぶヒントを得ようとする試みは、どういうわけか、多くありそうで、なかなか珍しいものだと思います。」

実際には、その逆に比べて圧倒的に需要が少ないということと、日本語という「漢字」「ひらがな」「カタカナ」という表記法だけで三種類もある言語をいわゆる「読み」「書き」「話す」「聞く」という四技能をバランスよく身に着けるまで習熟できる外国人があまりに少ないという現実を物語っているのかもしれません。

そんな貴重な立場からの「外国語修得法」なのですが、それ自体よりも今回はアッケルマン氏が文中で示したある言語の性質について取り上げたいと思います。

それは、言語の「正しさ」からの逸脱許容度という考え方です。

英語はリンガフランカ(国際共通語)としての機能があるため、その許容度は非常に大きいと思います。つまり、「正しく英語を使わなければならない」という考え方に使用者があまり縛られていないということです。このことは、その言葉を習得する上で非常にありがたい条件です。私がアメリカで生活していた時にはそのありがたさを本当に痛感しました。

また、ヨーロッパの多くの言葉は、それぞれの国が接しているということもあり、英語ほどではないにしてもその傾向は少なからずあると思います。

それに対して、日本語はその許容度はとても低いです。普段生活している上では、私たちは正しく使っている側なのであまり意識はしないのですが、外国人が日本語を話すとき、文法や発音を少しでも誤ったりすれば、即「変な日本語」として受け取ってしまいがちです。

これは、日本語を学習している外国人側からすると非常に厳しい条件だと思います。

特に、企業のお客様相談電話窓口などの例を考えればその差は歴然としていることが分かります。

アメリカでは、企業のお客様相談電話窓口の多くは実はアメリカには存在していないといいます。そして、それらのほとんどは人件費の削減のため、インドやフィリピンに繋がっており、対応しているのはそれらの国の人たちです。

ですから、いわゆる英語のネイティブスピーカーではなく、インドなまりやフィリピンなまりの人々がそれらに対応しているのです。

これは日本では絶対に考えられないことだと思います。

特に、企業のお客様相談電話窓口などは、クレームなどの非常にセンシティブなやり取りを含む可能性がありますので、通常よりもより厳しい「日本語の使用」が求められます。そのような場面で、外国語なまりの日本語を話すオペレーターを置いていたら、それ自体が次のクレームを生み出してしまうことにもつながりかねませんから。

日本国内で英語を使える環境を提供するランゲッジ・ヴィレッジを運営する者として、日本人の不完全な英語に完全に付き合いきる外国人講師の姿勢を、日本人の我々が逆の立場になったらとることができるのだろうかと自問してみました。

そして、その自問に即座に「Yes」と言えない自分を発見することで、それらを気持ちよくやってくれている彼ら彼女らがより働きやすい環境を作ろうと改めて思いました。