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ことばと思考

2014年6月18日 CATEGORY - 代表ブログ

20110616kotobatosikou

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さん、こんにちは。

ことばを仕事にしている私としては非常に興味深い書籍に出合いました。

ことばと思考」という本です。

私たち人間は言葉を通じて世界を見たり物事を考えているという考えには反論する人は少ないと思います。それならば、異なる言語を話す日本人と外国人では、認識や思考に違いがありうるのかということにもなりそうですが、本書の目的は、このことについて認知心理学の立場から明らかにすることです。

この分野で最も有名な考え方としてウォーフ仮説があります。アメリカの言語学者であるベンジャミン・リー・ウォーフは「言語における世界の切り分け方が、その言語の話者を支配する無意識の思考パターンの反映である」と説いたものです。

すなわち、母語における言語のカテゴリーが思考のカテゴリーと一致する、つまり言語に存在する概念しか理解できないという主張です。二十世紀の前半に発表されたこの仮説に対して、様々な実験が行われこの仮説の正当性が議論されてきていますが、この本には大変ユニークな実験結果が満載で非常に興味深いものでした。

その中の例を二つ紹介したいと思います。

まずは、位置表現について。私たちは、位置に関する表現をするとき、「前」「後ろ」「右」「左」など、自らを基準として相対的に表現する場合と、「東」「西」「南」「北」のように絶対的な基準で表現する場合があります。

しかし、オーストラリアの原住民のある部族の言葉には「右」「左」という相対的表現がなく「東西南北」という絶対的表現しか存在しない言語があるそうです。

ここで日本人である私たちは当然にしてある疑問が湧きます。それならば彼らはいつでも「東西南北」が感覚的に分かるのかという疑問です。

信じがたいことですが、彼らはいつでも「東西南北」が感覚的に分かるのだそうです。だからこそ、彼らには相対的な位置表現は必要ないということになります。まあ、落ち着いて考えてみると、犬が遠くから自分のうちに迷わず帰ってくるなど人間以外の動物にはその方向感覚があることが普通なわけで、逆に「右」「左」という相対的表現を手に入れてしまった人間の多くが、その能力を退化させてしまったと考えるほうが自然かもしれません。

これは、言語がそれを母語とする人間の能力の制約条件となっているというウォーフ仮説が正しいことをサポートする例だと言えそうです。

もう一つは色表現について。私たちは色を表現するとき「赤」「黄」「緑」「青」「紫」「白」「黒」という典型色を中心に色を分類しています。これについては日本語でも英語でもそこまでの違いはないと思われます。

しかし、ニューギニアの先住民のある部族の言葉には「明るい色」と「暗い色」の二種類しか色を表現する言葉がないそうです。

この色の名前が存在しない言葉をもつ部族の人に、色の違いを記号(例えば、青をポー、青と緑の間の微妙な色をカーなど)で記憶させるという実験を行ったところ、典型色の正解率のほうがそれ以外の微妙な色の正解率よりも圧倒的に高いという結果がでました。

このことが意味することは、先の「言葉=思考」の考えに従えば、彼らにとっては私たちにとっての「典型色」も「微妙色」もどちらも同じ存在であるため、正解率に差が出ないはず。それなのに、私たちが考える「典型色」のほうが正解率が高いというのは、どの言語を母語として使っている人にとっても「典型色」は典型なのだということです。つまり、言葉は能力に無関係ということになります。

これは、言語がそれを母語とする人間の能力の制約条件となっているというウォーフ仮説はあたらないということをサポートする例だと言えそうです。

この二つの例からすると、ウォーフ仮説は当たっているとも当たっていないとも言えないという何ともあいまいな結論が導き出されてしまうのですが、私の個人的な感覚としては、完全ではないにしてもかなりの割合でウォーフ仮説のいうところの「言語における世界の切り分け方が、その言語の話者を支配する無意識の思考パターンの反映である」という考えは当たっているように思えました。

その意味では、言語を身に着ける前の赤ちゃんは、何の制約も受けていないまさに「万能人間」であると言えるのかもしれないと思います。そして、「早期教育」を大人の感覚で行うことは、早い段階からせっかくの「万能人間」である子どもを制約条件にはめ込むことと同意義なのではないかとも思うに至ったのです。

ですから、自然に子供が母語を身に着けるまでは「万能人間」の思うが儘、自然体でのびのび育てることが最も理に適っているのではないかと自らの反省を込め、しみじみ思った次第です。