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文脈力こそが知性である

2017年11月22日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

前回は、「文脈力こそが知性である」の冒頭の部分に書かれていた「ゲシュタルト崩壊」の話で終わってしまったので、ようやくですが、今回本書の紹介をしたいと思います。

本書でもっとも著者が伝えたいことは、知性すなわち頭の良さの本質は、知識の集積にあるのではなく、集積された知識に基づいて何ができるかにあるということのようです。

そして、この「何ができるか」というのが、知識と知識をつなげ、意味を形作ること、つまりは「文脈づくり」ができるかということです。

前著の「語彙力こそが教養である」では、もしかしたらそのタイトルからも誤解を生じさせてしまうリスクを感じられて、改めて最も伝えたいこのことについて書かれたのではないかと思いました。

「知識」と「知恵」の違い、「物知り」と「賢人」の違い等、このテーマについては、様々な方が述べられていますが、今回齋藤教授が、これを「文脈力」ということで説明してくれたことで、非常に明瞭に理解することができました。

「つながりが見いだせると人間はうれしくなります。それは、真っ暗な森の中でどこに向かって歩いたらいいのかわからないときに、光明が差してくるようなものです。いろいろなものがつなげられるということは、明かりがあっちでもこっちでも灯り、視界が明るくなるようなもの。人生にはいろいろな喜びがありますが、『ああ、つながった!』というのは、最高の喜びの一つだろうと私は思います。」

小学校に入学したての頃の子供にとっては、このことはごく当たり前のことだと思います。

「三時のおやつ」ということを断片的な知識としてしか持っていなかったのに、学校で「時計」の仕組を教われば、それはまさに『ああ、つながった!』となるからです。

ですが、成長して、大学受験の知識くらいになると、一つ一つの知識をつなげることを「効率が悪い」として、とにかく知識として黙って頭に叩き込むことが「正解」とするケースが増えてきます。

でもそれは、齋藤教授のこの考えにのっとれば、明らかに「知性」を軽視することだということになります。

私は、つながらないと記憶できないという何とも不器用な生徒だったので、たとえ「効率が悪い」としてもいつも自分でつなげる努力をして遠回りをしてきました。

でも、私のその「ああ、つながった!」を大切にしたいという気持ちが、決して間違いではないという知識と今、明らかに「つながった」感じがしています。

これからも自信をもって、この感覚を大事にしていこうと思います。

 

 

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