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日本語と外国語

2014年7月20日 CATEGORY - 代表ブログ

日本語と外国語

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さん、こんにちは。

以前の記事で「ことばと思考」という本を紹介して、異なる言語を話す日本人と外国人では、認識や思考に違いがありうるのかということを考えました。今回はその続編として上記の「日本語と外国語」をご紹介します。

前回では、「母語における言語のカテゴリーが思考のカテゴリーと一致する、つまり言語に存在する概念しか理解できない」というウォーフ仮説に触れましたが、今回の本では概念の存在の有無というところからもう一歩進んで、概念の幅についての様々な面白い話題を提供してくれています。

日本語では、水とお湯は別の概念(ことばによるカテゴリー化)として整理されます。それに対して、英語ではwaterはその温度に関わらずwaterで、お湯に相当する言葉はありません。なぜなら、水とお湯は物質自体は全く同じもので、その温度が違うだけでは別の概念として整理する必要がないと考えられているからでしょう。

これは、日本人が初めての外国語として英語を習い始めるとき、おそらくそのほとんどが経験すると思います。

また、日本語と英語においては蝶(butterfly)と蛾(moth)は別の概念として整理されます。それに対してフランス語では蝶も蛾も「papillon」という一つの概念でくくられます。

これらは、言葉自体の幅の違いですが本書ではもう一つ、その言葉が表す対象物が一般的にもたらす「好感」と「嫌悪感」の違いについても指摘されていました。

日本では太陽は国旗である日の丸のモチーフにもなるくらいですから当然「好感」をもって受け止められることが多いと思います。全ての生命体に対して恵みをもたらしてくれる大切なものですから、日本でなくても多くの国で同じように「好感」を持たれているのは当然だと思います。

しかし、驚くことに太陽が逆に「嫌悪感」を持たれる国々があるのです。砂漠の多いアラブの国々がそうです。

これらの国々では一年中、砂漠の中で灼熱の太陽に苦しめられる生活を強いられるという文化を持つこれらの国々の人々にとっては太陽のイメージはマイナス以外の何物でもないのです。

このように、自らの母語たる言語に内在する対象認識の仕組みを「普遍的」なものと思い込んで他の言語にもそれと同じ仕組みを期待してしまうことは相互理解の大きな妨げになるということを理解しなければならないということをこれらの例で明らかにしてくれています。

この必要性は、世界のグローバル化が進めば進むほど大きくなっていきます。ただ、そうなってくると著者が指摘するような以下のような考えに行きつくことにもなります。(一部加筆修正)

「現在のように地球が狭くなり、それぞれ異なる言語を用いる人々の相互交流が飛躍的に増大し始めると、言語間の意思の疎通の非効率性は大きな問題となる。そこで誰しも考えることは、数千にも上る自然言語とは別に、もし単一の世界共通語があったらどれほど楽か知れない、ということであろう。しかし、世界の言語を統一するためには、その前に私たち人間の世界認識を統一的に決定しなければならない。仮に一つの人工言語なり、自然言語なりを選んでそれを世界語と定めたところで、人類全体が持つ経験と認識の多様性およびその動的な発展性とを、何らかの見地から整理・統合し、ある一定の枠に収めることができなければ、せっかくの形式上の統一も崩れる宿命から逃れられない。」

そして、以下続きます。

「言葉というものは出来上がり固形化した作品としての面を持ちながら、同時に深いところでは絶えず認識対象に働きかけ、動的に新しくそれをつかみ直そうとする挑戦を止めない、一種の精神的な活動力でもあるという側面を併せ持つために、伸縮自在の末広がりで底なしに開いた構造をしていると考えられる。自然言語がこのような仕組みになっているからこそ、人間は時々刻々に変化し常に新たな側面を見せる複雑な現実にうまく対応できるのである。」

これが、EUなどで見られるような言葉の多様性の保護の意味なのかと非常に納得しました。そして、人工言語「エスペラント語」の普及が進まなかった本当の理由なのかと思わせられました。

現在はコンピューターによる完全に「気の利いた」翻訳機能がそう遠くない未来に実用化されるだろうという議論が当たり前になされるような時代です。しかし、この著者の指摘を一語一語かみしめて理解しようとすると、その実現性に疑義が生じるような気にもなります。

 

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