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言葉のルールと進化

2014年4月9日 CATEGORY - 代表ブログ

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皆さん、こんにちは。

言葉を仕事にしている私にとっては、非常に面白い映画を見ました。

タイトルは「舟を編む」。この映画は、ある出版社の寄せ集め編集部が、気の遠くなるような歳月をかけて「大渡海」という二十数万語が収録された新辞書作りに挑む姿をユーモラスに描いたものです。

この「大渡海」という辞書には彼らの「今までにない辞書をつくる」という熱い思いが込められています。

そのため、通常の日本語についてはもちろん、いわゆる女子高生が使う「ギャル語」や若者のいわゆる「ら抜き言葉」も収録し、なおかつ、今まで世の中に存在する辞書の二番煎じではない彼ら独自の視点から「定義」を作り出していくさまが非常にコミカルかつリアルに描かれています。

辞書の編纂は編集部の人々の「言葉探し」という地道な作業が基礎となっているということを初めて知りました。私たちLVスタッフも「しなやか英語辞」の運営で常に「しなやか日本語」探しをしていますので、なんだかものすごく親近感を覚えました。

この映画の中で一番印象に残ったことは、言葉の変化について言葉のルールに基づいたもののみを認めるのか、それとも言葉のルールとしてはでたらめなものでも幅広く使用されれば認めるべきとみるかという視点です。

この「大渡海」の編集においては、スタンスとして後者をとっていました。監修者の偉い言語学の先生が、「コギャル」の集まる場所で真剣に「ギャル語」収集をしている中で、彼女たちに「キモイ」と言われるところはまさに「チョベリグ」な描写でした。(笑)

しかし、私個人としてはこの点については、どちらかと言えば、前者です。

TOEIC等では測定できない「英語を使う力」の測定に特化した「SEACTテスト」を主宰して、英語は間違ってもいいからとにかく「伝える」ことを重視すべきだと再三にわたって主張してきている人間が言葉のルールに従うべきだというのはおかしいと思われるかもしれません。

しかし、私は母国語と外国語は区別すべきだと思うのです。日本人にとって英語は所詮は外国語、つまり「ツール」にすぎません。それに対して、日本語は母国語、すなわち自らの存在が依って立つ思考の基礎を担っているものです。

ですから、母国語には「ツール」に対して求める以上のシビアさが絶対に必要だと思うのです。

もちろん、言葉は現実的には時代とともに変化していきます。これを止めることは不可能です。

ですが、新しい言葉が世に出たときに、「言葉のルール」の洗礼を受けさせる機会を確保するべきだと思うのです。

それは、学者だけではなく、一般人も間違いに気づいた人が「それは日本語として間違っている」と指摘するという、あえて「ウザイ」言葉の番人役を買って出ることです。この言葉の番人の攻撃にも耐え、それでも世の中に広く認められるようになったら、それはもはや間違いではなく「進化」と言えるのではないでしょうか。

さて、この記事の中で「」付とはいえ、「コギャル」「ギャル語」「キモイ」「チョベリグ」「ウザイ」を使っている私ですが、これらは言葉の番人にダメ出しされるべきパターンでしょうか?

私としては、これらはすでに間違いではなく、「進化」した日本語だと考えております。(笑)