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超バカの壁

2018年4月22日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

前回久しぶりに養老先生の「バカの壁」シリーズの読書を再開させたとして「文系の壁」についてご紹介しましたが、今回は「超バカの壁」です。

出版された時期としては、第一弾の「バカの壁」が2003年、第二弾の「死の壁」が2004年、前回の「文系の壁」が2015年、今回の「超バカの壁」が2006年ということで、シリーズとしては本書が第三弾ということになります。

本書は前二作によって明らかにした「バカの壁」の定義、すなわち「物事に対する本当の理解を諦めること」にどう抗うかについて、現実の具体的な課題に向き合って著者が個別に解説をする内容になっています。

個別具体的だからこそ、著者の考えを体感的に理解できる作りになっています。

これらの解説を個別的に見てくると、「バカの壁」を取り払って「本当の理解を諦めない」姿勢を貫くと、逆接的ですが一つの考えに収斂しているような気がします。

私自身、そのような考え方を同じようにできるかと言われれば、とてもできることではありませんが、本書において養老先生が様々な問題に対して回答している内容を見ていると、見事に一つの大きな考え方から外れていないことが分かるのです。

それは、一言で言うと自分と違うことを認める姿勢です。

本書の「子供の問題」とされた項目に次のような一節がありました。

「子供の本質的価値というのは例えば無垢であるということです。そういう子供らしさに今の人は価値を認めようとしません。ただ子供を甘やかせということを言いたいのではありません。『どうしようもないな、このクソガキ』と思う時は叱ればいい。ただし、そんな面があることもやむを得ないと思って根本的に受け入れることが大切なのです。この問題は人生の価値をどこに置くかに関わってきます。その人が何に価値を置くかを問うているのです。」

人間は社会の中で成長すると、様々な文化的規範にがんじがらめにされます。それによって、「バカの壁」がいくつも作り上げられるわけです。

だからこそ、子供の本質的価値である「無垢」であること、何物にもとらわれない自分自身の価値を貫くことができにくくなってくる。

それによって、他人を批判したり、排除したり、しまいには自分とは異なるものを「テロ」と断罪し、それらを攻撃してしまいます。

しかし、攻撃される相手から見ればそれこそ「テロ」でしょう。

成長しても自分自身の価値基準を持ち、他人の価値基準にも染まらないけれども、自分と異なる価値も尊重できる姿勢を貫ける大人が増えたらどんなに成熟した社会になるでしょうか。

まさに言うは易し、行うは難しです。

このように生きることが「バカの壁」を取り払うことだと主張して説得力を持てる人がこの世にどのくらいいるでしょうか。

大人になって社会的な名声を得ても「虫捕り」が自分の中で最も優先順位の高い行為であるとはっきり言うことができる養老先生くらいしか、このような主張に説得力を持てる人はいないと思います。

それほど、「無垢」のままで成長することは難しいことだということを痛感しました。