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「ら抜き」は言葉の進化か退化か

2016年10月2日 CATEGORY - 代表ブログ

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皆さん、こんにちは。

2016年9月21日の読売新聞に、「ら抜き言葉」と呼ばれる「見れた」「出れる」を使う人の割合が、本来正しいはずの「見られた」「出られる」を上回ったことが、文化庁の調べでわかったとの記事がありました。

1995年度の調査開始以来、逆転するのは初めてで、同庁は「『ら抜き』の方が受け身や尊敬ではなく、可能の表現だと的確に伝わるからではないか。多くの人が使い、耳慣れることで、さらに使う人が増えている」と分析しているとのことでした。

続いて、翌9月22日の読売新聞では「編集手帳」にてこの記事を取り上げ、次のような指摘をしていました。

「新聞記者としての筆者自らは、言葉を仕事にしている以上、「ら抜き言葉」を耳にするたびに血圧が上がるほどの憤りを感じるわけだが、実は太宰治や川端康成などの文豪も、その作品中には時折、「ら抜き言葉」が見られるため、それらをメモしておいて、大文学者でも時折こうなのだからと血圧を下げるお守りとしている。」

「可能・尊敬・受身に使用される<られる>に比べると、可能専用の<れる>は紛らわしくなくて使い勝手がいいという声も聞くが、高跳びのバーを低くして技術の水準が上がるとは思えないのだがいかがだろう。」

どちらにしても、このコラムの筆者である新聞記者は、ら抜き言葉を「許せない」と思っているようですが、同時に言葉が生き物である以上、変化していくという性質を帯びているという事実も認めているものだと思います。

私も、「ら抜き言葉」に関わらず、言葉の「不適切使用」についてはこの筆者の考え方、感じ方にそのまま同意いたします。

最近最も私の血圧をあげてしまう言葉の「不適切使用」は「すごい~(動詞or形容詞)。」です。例えば、「すごい好き」「すごいきれい」の類。

動詞or形容詞を修飾するのは副詞ですから、ここは明らかに「すごく好き」「すごくきれい」が正解なわけです。そして、私の血圧がMAXになるのが、テレビの中で、そのような発言があった時に、字幕としても「すごい好き」「すごいきれい」と表示してしまうケースです。

私の感覚では、NHKは、発言が「すごい好き」「すごいきれい」であってもほぼ100%「すごく好き」「すごくきれい」という表示に直されますが、民放の場合には、半分くらいそのまま「すごい好き」「すごいきれい」と表示しています。

ここが重要だと思うのですが、私自身も時々「すごい好き」「すごいきれい」と言ってしまうことがあります。川端康成のような大文学者でも時折「見れた」「出れる」とやってしまうわけですからこれは仕方のないことです笑。ただし、それを見つけたときには気が付いた人が「不適切使用」だということを指摘することが重要だと思うのです。

私は、自分の子供の言葉の「不適切使用」には必ず注意をしています。そして、自分自身がそう言ってしまった時にはそれ以上に大反省をします。

繰り返しますが、言葉が生き物である以上、変化していくという性質を帯びているという事実は受け止める必要があります。しかし、その変化は、本来正しくないという数々のおせっかいな指摘を乗り越えて、それでも変化していくものこそ、「進化」であって、ただなんの抵抗も受けないで変化していくものは「退化」だと思うのです。

この「ら抜き言葉」についてはかなり昔から、批判がなされてきたものだと思います。それなのに、大文学者でも時折やってしまうことでもあったわけです。これは、「正しさ」の中にも、「使い勝手の悪さ」が存在している事実を表しているように思います。

それでも、まずは「正しさ」の視点から批判を加え続け、それでも可能・尊敬・受身に使用される<られる>に比べると、可能専用の<れる>は紛らわしくなくて使い勝手がいいという「使い勝手の良さ」によって、多くの日本人がその批判にあがない続けた結果、過半数を超える日本人が「ら抜き」を支持することになっていったということが重要だと思うのです。

おそらく、これが70%80%となっていった暁には、晴れて「正しさ」の視点からも認められることになると思います。

それまでは、私は愚直におせっかいな他人批判(もちろん、ものすごく感じが悪いのは分かっていますので自分の家族くらいですが)と自己批判を続けていきたいと思います。笑

 

 

 

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