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「ウェブはバカと暇人のもの」を読んで

2017年5月21日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

前々回、前回とネットニュースの問題について考えてきましたが、その中で私が一番気になったのは、次の事実でした。

「実は世の中には、『ざっくりと世の中のことを知りたい』という要望を持った人間のほうが、『ちゃんとした情報を知りたい』という人間よりも圧倒的に多数であるということが、ネット時代になって分かってしまった。」

この問題を掘り下げようとして、様々な本を当たってみましたが、ネット時代の本質を鋭くかつシュールに抉り出した本を見つけましたのでご紹介します。

それは、「ウェブはバカと暇人のもの」という本です。

この本の著者は、長年ウェブの世界でライターや編集をやってこられただけあって、タイトルを見ただけでわかると思いますが、非常に表現が直接的で攻撃的です。(笑)

ですが、だからこそ、この問題を本音で語ることができているという部分もあると思いますので、あえて極端な表現もできるだけそのまま引用するようにします。

ネットの良い面として、フラットで民主的な仕組みであるために「集合知」が形作られやすいことがあげられることがありますが、著者は、その仕組みはむしろ、悪い面としての「集合愚」が形成されることのほうが多いと実感されているようです。

つまり、ネットの世界では、凡庸な人が凡庸なネタを外に吐き出すことで、本当に良いものがそれらによって見えにくくされてしまうリスクのほうが大きいということです。

その理由を次のように説明しています。

「クレームをつける側は、組織を背負っていない匿名の個人として発信することで、『絶対に勝てる論争』を高みから仕掛けてくる。一方、クレームを受ける側は、組織を背負っているので逆ギレできない。つまり、完全なるハンディキャップマッチというわけだ。まさにいじめの構図そのものだ。」

私は、この説明を受けて東日本大震災のあとの日本の状態を思い出しました。

その当時、「東北がんばれ!」の雰囲気が日本全国を覆いつくしていました。もちろん、それ自体当然のことで、その動きに少しでも反対するような意見が出ようものなら、どんなバッシングを受けても仕方がないと誰もが思っていたと思います。

ですが、皆さんは覚えているでしょうか。

あれだけ、日本全体が「東北のために何かしなければ」という気持ちで一致していたはずが、被災地の瓦礫の受け入れを決断した自治体の多くが、市民の反対によって断念せざるを得ない事態が起こりました。

この現象は、まさに、なんら責任を負っていない匿名の個人として発信することで、『絶対に勝てる論争』を高みから仕掛けているうちだったら、建前をいくらでも振りかざすことはできるが、一旦自分自身に責任や負担がふりかかった瞬間から、本音で語らざるを得なくなることを如実にあわらしたと思います。

著者は、「バカと暇人」という極端な表現を使っていますが、私はこれを「責任を負担しなくてもよい大衆」というように言い換えるべきかと思います。

社会には、建前と本音とがあって、その二つを責任や負担といった「事情」がバランスをとることで成り立っています。

その上で、建前を本音に近づけることで問題を解決するためにこそ、ニュースをはじめとする何らかの情報を「発信」をするという行為があるはずなのではないでしょうか。

今までは、その「発信」をするという行為は、紙面やテレビという限られた場所で、限られた一部のプロによってしかできないことでした。

ですから、彼らのその行為には、自ずと責任と自覚が当然に伴っていました。

それが、ウェブの出現によって、誰もが「発信」を行うことができるフラットで民主的な仕組みとなった結果、「責任を負担しなくてもよい大衆」がその行為を行う多数派となってしまったのです。

本書で著者は、「このネットの世界に過度な幻想を持つのはもうやめよう」という超悲観論で一貫しています。

ネットの世界でずっとやってきた著者が、「ネットよりも電話のほうがすごい」「ネットよりも新幹線のほうがすごい」というリアルの世界への回帰を私たちに勧めているのは、非常に違和感がありますが、アナログ人間の私としては同時に心地よさも感じてしまいます。

ですが、それでも、このフラットで民主的な仕組みが、学習を繰り返すことで、希望が見いだされることに期待したいと思います。

 

 

 

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