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ボトルネック

2013年5月16日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

来週1週間ランゲッジヴィレッジは年に一度のリフレッシュ休暇をいただきます。

講師、スタッフはいずれも、自国に帰省したり、バケーションに出かけたり、思い思いのリフレッシュをすることでしょう。

私は、この休暇を利用して、SEACTテストの面接官の追加採用などのためフィリピンへ行ってまいります。そのことについては、また帰国後このブログでも触れてみたいと思いますので、ご期待ください。

今回は、本日の朝のニュースにありました「小学校英語教科提言」について私の考えを書きたいと思います。
記事は こちら です。

2011年の4月からいわゆる英語教育が小学校に必修となった時、国民的な議論になったのはまだ記憶に新しいと思います。
 
これはあくまでも「総合的学習の時間」の一部としての英語活動であり、「正式科目」ではないという位置づけでした。

今回の提言の一部は、それを完全な「教科」として扱ったらどうかというもののようです。

今朝のニュースでは、コメンテーターさんたちの大方の意見は「グローバル化には必須」「大賛成」などという論調でした。

しかし、私の考えは少し違います。
 
「英語の必要性」の高まりについてはもちろんうれしいですし、意味のあることだと思います。しかし、この議論にはタイトルの「ボトルネック」の考え方が抜けているように思えるのです。

小学校への英語の導入の議論は基本的には、「日本人は英語を中学、高校とこれだけやっても身につかないのだから、もっとやらなければならない。だから小学校にまで」というものです。

しかし、日本人の英語教育を全体としてみたとき、知識としてのインプットはほぼ十分だと考えます。

日本人の英語の知識には、冒頭の絵のように、ボトルの左側は十分な幅があります。
 
しかし、あるところからきゅっとしぼんでしまっているのです。

これは、「日本には英語を使う環境が(まったく)ない」という状態のことです。

小学校に英語を導入云々の議論は、左のほうをもっともっと広げようとすることに等しく、どんなに広げても途中がしぼんでいれば、結局最終的なパフォーマンスはその幅に制約されてしまうのです。(日本では、まったく「使う」教育がないので制約というか、コルクでふたをしていると考えられるかもしれません)

これでは、すべてのインプットは結局、無駄になりますので、その追加の時間の分ほかの教科を強化したほうがよいということになるのは目に見えています。

ですから、本当にしなければならないことは、コルクのふたを取って、ボトルネックの部分を広げて、瓶の形ではなく、しっかりとした幅のあるパイプの形にすることです。
 
具体的には、中学くらいまでは今のままのインプットを確保し、そのあと「英語を使う環境」を与えることです。
 
私はいろいろなところで言っていますが、高校以上では英語を受験科目から外して「体育」や「美術」のような科目にするべきだと思っています。

これで、少なくとも必ず高校以上を修了した日本人は全員、確実に英語を話すことができるようになります。

このことに照準を合わせて初めて、今回の記事の最後にある「指導できる教員の養成」が問題になるのであって、この期に及んで「授業時間数の確保、成績評価や検定教科書」などを心配するなどは全く外れた議論だと思うのです。

このような理屈から、私たちはLVのサービスの本質を「英語を使う環境」の提供だと自己定義してそこから決して外れないように努力をしています。

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