代表ブログ

作品が古典になるということ

2017年10月22日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

先週に引き続き、「読書の方法」よりテーマをいただいて書こうと思います。

それは、作品にとっての作者の存在と読者の存在についてです。

一般的に考えれば、作品に関して言えば、作者は絶対的権力者であり、読者はその価値を与えてもらう受益者という言って見れば主従に近い関係とみなされることが多いと思います。

よく、現代国語の試験問題で、「この文章から作者はどのような意図があったか答えなさい。」という設問があって、その模範回答に対して、実は作者に実際に聞いてみたら、回答とは違う意図だったから、この問題の模範解答は間違いだと批判されるような話があるのもそのことを証明していると思います。

ですが、本書を読むと、それは主従関係ではなく、協働関係であるという理解にいたることができました。

このことについて著者は次のように言っています。

「文章の意味として、必ずしもその筆者の考えが最も正しいという保証はないということを知るのは『読みの考察』には欠かすことができない。妥当な意味とは存在するものではなく、発見されるものだ。時間的にも、ある時点では妥当な意味でも別の時点ではそうでなくなることはいくらでもある。また、筆者と読者はそれぞれ独自の世界に生きている。そのため常に文章の解釈についての不一致が存在する。(一部加筆修正)」

この表現に触れた時、なるほどなと思いました。

特に、前半の「時間的な意味での不一致」については、著者と読者という別人格でなく、著者自身という同一人格の中でも起こりうることに気が付かされたからです。

というのは、著者が原稿を公にする前に行われる「推敲」という作業がまさに著者自身という同一人格の中で起きるその不一致を利用したものだと言えるからです。

そのことについて次のようなエピソードが紹介されていました。

「アメリカのヘミングウェイは作品ができると銀行の貸金庫の中へ入れてしばらく寝かしておき、かなり時間が経ってから取り出し新しい目で読み返す。そして、それを繰り返して納得してから出版した。」

つまり、最初の原稿を作った時は、自分自身という「特殊性」が満載の文脈になっている可能性が高く、推敲することによって、より「普遍性」のある文脈に昇華させる効果があるということでしょう。

ですから、自分自身で推敲したり、長い時間の中で多くの読者の目に触れさせることで、その作品が、大した価値のないものであれば、簡単に消えていくであろうし、どこかに価値があるのであれば、自分よがりな作品から普遍性をもった「古典」に変貌していくということです。

まさに、このことをもって、著者と読者の関係は主従関係ではなく協働関係なのだと思いました。