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作詞家入門

2017年12月22日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

前回の記事にて作詞家の阿久悠さんについて書いたことで、彼に対する興味がふつふつと湧いてきまして、もう一冊彼の著書を読んでみました。

その名もずばり「作詞家入門」です。

まず本書の冒頭で、阿久さんは「作詞家」という存在に関して、以下のような急所を突くような発言をされています。

「作曲については、誰もが簡単にできるとは思わないが、作詞というものは自分でもできると思っている人はゴマンといる。なぜなら、前者の技術は譜面を書くという特殊なものなのに対して、後者の技術は字であって、その字は誰でもが書くことができるからだ。しかし、いわゆる職業としての『作詞家』ということになると非常に難しいことなのだ。それは、『こうすれば作詞家になれる』というものは絶対にないから。作詞に方程式は絶対にない。そこで、自分なりの方程式を作るのが作詞家なのだ。(一部加筆修正)」

このことは、前回の記事に書いたこととぴたりと重なるように思われます。

それは、著者が淡路島という東京からずっと離れた情報の乏しい場所で育ったことで、言葉と実態とを簡単に重ね合わせられない時間を確保することで、自分の言葉に重みや鋭さを持たせることにつながったというエピソードです。

本書では、彼がこのような経験を経た上で、自分なりの方程式を作る具体的な場面を垣間見られるような記述がありましたのでご紹介したいと思います。

「歌詞に使われている言葉を分類してみると最も多く使われているのは『恋』と『愛』である。だが、日本には恋も愛もないのではないかと考えている。あるのは、男と女の縁(えにし)であったり、絆であったりで、恋とか愛とかというものとはまた違う気がするのだ。非常に便宜的に恋とか愛とかという言葉で表現しているが、内容的にはほとんどが縁であり絆である。ならば、作詞家の本当の仕事は、改めて本来の恋や愛を描くことであるはずなのだが、いつまでもこの二つをいい加減に使い続けていることは、私を含め作詞家の怠慢と言わざるをえない。」

このような具合に、使用する言葉の一つ一つについて、「言葉と実態とを簡単に重ね合わせられない時間を確保することで、自分の言葉に重みや鋭さを持たせる」作業を経て、自分の作品を完成させていくからこそ、極端に異なるジャンルの作品も漏れなく、聴くものの心をとらえるのだと思いました。

「男と女の比較的短期のしめっぽい縁を『恋』、やや長期のものを『愛』と偽って書いてきたことについて反省しなければならない。しかし、『愛』という言葉が、最近では人間同士であったり、国に対してであったり、時代に対してであったり、自然に対しての表現として使われるようになってきたことは、ああよかったなと思うのである。」

そんな阿久悠さんをもってしても、その方程式については完成しておらず、なお『恋』や『愛』というような言葉を使わなければ詞が成立しないことを反省しながらそれらを使っているというところに、ただ普通に『恋』や『愛』という言葉を使う場合とでは、私たちの心に訴える力が当然違ってくるのだと思いました。

まさに、それを職業にした阿久悠さんのプロフェッショナルとしての「気概」と「責任」によるところが大きいと感じました。

分野は異なれどその道でプロフェッショナルをかたるのであれば、自分なりの方程式を見つけなければならないということについて私自身確認させていただきました。

 

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