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文明の本質

2016年4月3日 CATEGORY - 代表ブログ

 

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皆さん、こんにちは。

福澤諭吉シリーズが続きます。

本日ご紹介するのは、「文明論之概略」です。

岩波文庫から出されているこの本は、現代語訳に直されておらず原文そのままが収録されているものでしたので、正直読むのに苦労しました。

ですが、本書を読むことで、明治維新の成功要因として良くあげられる、福沢諭吉をはじめとする学者の方々が、西洋文明をいち早く取り込み、それを日本人が活用しやすいように「加工」したという事実が、非常に鮮やかにイメージできるようになりました。

その本人が、その事実を解説しているのですから当たり前といえば当たり前ですが。

例えば、次のような一節があります。

「書中、西洋の諸書を引用してその原文を他たちに訳したるものは、その著書の名を記して出典を明らかにしたれども、ただその大意をとってこれを訳するか、又は諸書を参考して趣意のあるところを探り、その意によりて著者の論を述べたるものは、一々出典を記すべからず。これをたとえば、食物をくらいてこれを消化したるがごとし。その物は異物なれども、ひとたび我に取れれば自から我身内のもの足らざるを得ず。ゆえに書中稀に良説あらば、その良説は余が良説にあらず、食物の良なる故と知るべし。」

現代の大学生の論文コピペ問題に対する痛烈な警告のようにも聞こえような気がするのは私だけでしょうか。(笑)

ここでは、西洋の書物をそのまま直訳するのではなく、日本人の学者として一度その書物を自分の中に取り込んで、自らの思考を経たうえで、訳すことの重要性を述べていると私は捉えました。

そのようにして訳されたものはもはや原書からは独立した独自の書物たりうるという覚悟をもって翻訳にあたるべきだという学者としての心構えを伝えているようにも思います。

以前のブログで「日本だけが急激な欧米化に成功した理由」でも説明しましたように、日本が近代化にアジアの中でいち早く成功したのは、鎖国の時代にも、オランダとは交易を行い、西洋文明を体系的に理解することを継続的に行ってきたからではないかと考えられます。

しかも、それは単に「蘭語(オランダ語)」を学ぶということではなく、「蘭学」というように、あくまでもオランダ語というツールを使って、西洋の様々な「概念」を学問対象として自らの思考の中に落とし込む訓練を行ってきましたというように述べました。

まさに、この「西洋の様々な概念を学問対象として自らの思考の中に落とし込む」ということの重要性を福澤諭吉は実に明確に自覚していたということが分かる件だと思います。

文明の本質とは、まさに自分の中に取り込まれて初めて「文明」として機能するというものであって、どこかからもって来ただけでは機能するものではないということを、福澤諭吉がまさにその取り組み最中に理解していたということに多くな驚きを感じました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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