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究極の自由は幸せか

2011年1月8日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さんこんにちは。

昨年末から今年にかけて、ウィキリークスについての話題が盛り上がりました。

内部告発サイト。

すなわち、国家、企業、あらゆる組織の内部者が、高度な情報暗号化技術をほこるウィキリークスのサイトによって身元を割られる心配なく安心して内部極秘情報を公開することができるというものです。

その犠牲となったのがアメリカ政府を含む主要各国政府だったのでこれほどまでに大きな問題に発展してしまったようです。

ウィキリークスの代表者は別件逮捕されましたが現在は保釈中で、これからも内部告発サイトをどんどん促進させると発言しています。

彼のビジョンとモチベーションははっきりしています。

「情報が何者にも支配されず、すべて自由に閲覧できるようになれば人間は本当の意味での自由となり、民衆が国家に変わって力を持つことができる。そしてそれは幸せにつながる」ということです。

なるほどな。とも思える考えです。

それは、昨今のインターネットの急激な発展により、ブログや比較サイトなどによって、企業の自画自賛広告の力を完全に弱め、消費者(民衆)の力を強め、主権をメーカー(企業)から消費者(民衆)の手に移したということがそのひとつの例です。

これと同じことが、政治的な意味での主権にも言えるでしょうか?

私はこの二つには大きな隔たりがあり、簡単には同一視できないと思います。

それは、政治的主権における投票権は一人一票、それに対し経済的主権における投票権はお金の多寡によるということだからです。

すなわち、経済的主権におけるお金というものはある意味、今までその人がどれだけ経済的な努力を払ってお金を所有し、その消費にそのお金を回すかということなので、その投票権に対して人々は当然真剣になります。

しかし、政治的主権の投票権は、政治についてまじめに考える人も、ぜんぜん興味のない人も同じ一票が与えられます。

このような前提条件が大きく違う中で、ウィキリークスが主張するように。「情報が何者にも支配されず、すべて自由に閲覧できるようになれば人間は本当の意味での自由となり、民衆が国家に変わって力を持つことができる。」そして「それは幸せにつながる。」のでしょうか?

もちろんできるかもしれませんが、私は少し恐ろしい感じがします。

それは、完全な自由が担保されていない現在の私が、発展途上の段階で考えるからなのかどうなのか?それは、やはり、そうなってみないと分からないということでしょうか?

でもこの流れはどうであれ、止めることは難しいようですが。

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