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超名門校ではどんな英語を教えているのか

2018年1月15日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

超進学校として誰もが知る灘校。

東京大学への進学率が最も高いという評価にとどまらず、理系の最高峰 理Ⅲと文系の最高峰 文Ⅰへの進学率がダントツである、すなわち東京大学に入ることよりも灘校に入ることの方が難しいともいわれる名門校です。

このような学校でどのような授業が行われているのかについては、従来より非常に興味があり、少し前にはこのブログにて灘校の伝説的国語教師 橋本先生の授業についての記事を書きました。

そこでは、単なる受験対策にとどまらず、深い学びを追求する授業が紹介されており、受験に特化するから東京大学に合格するということではなく、初めからもっと高い目標、例えば日本の発展に自分自身が関わるために深く学び、その途上で当たり前のように東大に合格する仕組みを作っているように思えました。

当然にして、国語だけではなく英語の授業がどうなっているのかということについても興味がありましたが、具体的に調べるまでには至っておりませんでした。

ところが、先日どうしても灘校の英語の授業について調べたくなってしまう出来事がありました。

それは、以前にランゲッジ・ヴィレッジの国内留学に参加してくれた灘校の中学生が、久しぶりにリピーターとして戻ってきてくださったのですが、クラス分けに際して前回の彼のレベルよりも一段階難易度の高いクラスに設定していたのですが、そのクラスを急遽再編成しなければならない状況になってしまったことでした。

普通の中学生の場合、その期間に海外留学でもしていない限り、そこまで大きな会話能力の変化が見られることはまずないのですが、灘校の彼の場合、そのレベルが全く別次元の上達ぶりだったのです。

このことで、もはや私の灘校の英語の授業に対する関心が抑えられなくなり、調べてみた結果、キムタツ先生という愛称で有名な灘校の英語教師 木村達哉先生に関する東洋経済オンラインの記事を見つけました。

その1 その2 その3

この記事における灘校の英語の授業の説明を要約すると以下のようになります。

「現在の受験では、かつての受験のように紙に書かれた問題を解けばいいというものではなく、センター試験にすら音声による聞き取りを含めた総合的な知識が問われる。しかも、紙に書かれた英語も音声に乗った英語もどちらも同じ『英語』であるが、そのどちらが把握困難かと言えば明らかに、再度確認のできない音声に乗った英語であるはず。であるならば、灘校ではリーディングのトレーニングをリスニングのトレーニングに一本化することで、通常の学生がリーディングとして取り組むレベルの文章をリスニングとして取り組んでしまえばよいという考え。耳で拾えるものは確実に目で拾えるはずだからだ。それができれば東京大学に合格できないわけがない。しかも、その能力こそが、受験が終わった後、大学や社会において最も求められる英語能力に他ならない。」

つまり、灘校の英語授業では、究極の「高所トレーニング」を行っているということです。

従来より、私は従来の英語教育を擁護する立場をとっています。

それは、現在の一般的な学校英語教育が、本来文法知識を前提としてより高いレベルの教育として行うべきオーラル教育をその基礎なしで行うことで、定型的なフレーズの丸暗記にとどまってしまい、後からどうにも対処のしようがない状況を作り出してしまっている現状と比べれば、従来の文法偏重教育は学校教育でやるべきこととしてはよほど適切だという理由からです。

そもそも、学校教育では、そのレベルまでを確実にすることに留めるべきであり、教える教師も教えるべき内容のレベルに達していない状態でそれを教えることを求めることなどあり得ないという立場です。

しかし、私が驚いたのは、灘校では、生徒も教師も、学校教育の枠内で「文法知識教育をきっちり行った上で、それを前提としてよりレベルの高いオーラル教育を行う」という理想を現実のものとしているという点です。

私は、ランゲッジ・ヴィレッジの国内留学に参加した生徒さんが、「先生にもっと文法の間違いを指摘してほしかった」という発言をすることはそもそもおかしいということに気付いてほしいと常々発言しています。

そのこころは、文法知識は事前に知識として日本語を活用しながら理解しておくべきで、それがある程度できるようになってから、その知識を音声に乗せるためのトレーニングを行う「環境」として国内留学をとらえるのが筋であり、自分で発言したものが間違いかどうかを自分で判断できないようではまだインプットが足りないと反省するべきだということです。

このことが、ランゲッジ・ヴィレッジにおいて国内留学とは別に文法講座を設けた理由です。

灘校のキムタツ先生の指導はまさにその本来あるべき理想の学習順序を実行して、最初から最後まで一貫して行っていることに他ならないということです。

私はこの記事を読んで、久しぶりにリピーターとして戻ってきてくれた灘校の彼が、学校の授業だけであそこまでの会話力の上達を得ることができたことに納得したのでした。

もちろん、このことを実現できるのは、灘校の生徒と教師だからこそだということも一つの真理で、完全に一般化することは難しいとは思います。

ですが、そのことは、オーラル教育を学校において重視するということの本来の意味を日本中の学校教育に携わる人間が再確認する機会をあたえてくれているように思えてなりません。

 

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