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遺伝子と人間の意識

2017年5月10日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

前回の記事は、遺伝子と人間の「思考」や「意識」の主導権争いについて考えてみたいというところで終わりましたが、そのテーマにぴったりの映画を見ました。

それは、「愛を複製する女」というちょっとタイトルからして怖い映画で、ストーリーは次のようなものです。

「海辺の小さな田舎町に住む幼なじみのレベッカとトミーは、子どもながらも深い愛情で結ばれていた。やがて大人になり、当たり前のように将来を誓い合う二人。しかし幸せの絶頂の中、突然の事故でトミーは帰らぬ人となる。極限の哀しみに打ちひしがれるレベッカだったが、再び幸せを取り戻すため、あるとんでもない方法を思いつく。それは最先端の科学の力で、トミーのクローンを自ら宿し、産み、そして育てることだ。」

本映画は、基本的には、愛する人と全く同じ個体を自らが産み育てるという中で生じるその女性の側からの精神的葛藤を主に描いていますが、私には、むしろクローンとして作られた男性の反応が、今回のテーマである遺伝子と人間の「思考」や「意識」の主導権争いをまさに描いているように感じられました。

クローンとして作られた男性は、成長して自らがかつて母親が愛した人間のコピーであることを知り、非常に精神的に追い詰められます。そして、最終的には、自らを産んだ女性と決別することによって、その苦悩から逃れる決断をします。

ここで私は疑問に思いました。

遺伝子が自分自身を次の世代に残すという「利己的」プログラミングがその本質だとしたら、1/2だけ次の世代に残せる子供などよりも、100%そのまま残せるクローンのほうがより魅力的であるはずで、そもそも精神的葛藤による苦悩などを引き起こす必要などないのではないかと。

また、一卵性双生児は、100%遺伝情報が同じ全くのクローンと言えます。しかも、今回の映画のケースでは、お互いの存在は時間を隔てており、同時に存在していないのに対して、彼らは同じ時間も共有しているにもかかわらず、それによって彼らに精神的葛藤が生じているという話は聞いたことがありません。

この違いを、この映画には実にうまく描いていた部分がありました。。

それは、映画の中でクローンとして作られた男性が、苦悩の最終局面で「僕はいったい誰なんだ!?」と母親(?)に迫る場面です。

つまり、自分自身の自己同一性(アイデンティティ)、すなわち、自分自身がこの世において他とは異なる唯一無二の存在であるという確認ができなくなってしまうことによって苦しむのであって、遺伝情報が同じであるということ自体は、その苦悩の原因ではないということです。

前回ご紹介した「利己的遺伝子とは何か」の最後で著者は次のように述べていました。

「人間の脳は遺伝子に対して反逆できるほど十分に遺伝子から分離独立した存在となっておかげで、ただひたすらに増え続けようとする遺伝子との戦いに勝った。そのことによって、『人間らしさ』を表現できるようになったのだろう。」

つまり、人間の「思考」や「意識」の存在によって作り上げられた複雑性が、自分自身が他の何物とも異なる唯一無二の存在であることを常に確認したいという性質を作り上げた結果、それが『人間らしさ』というものを作り上げているということです。

私たちの人間としての「意識」はまさに、人間が遺伝子との戦いに勝った結果得られた貴重なものであると考えたいと思います。

 

 

 

 

 

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