日本人と英語

なぜ仮定法では時制が一つずつズレるのか

2025年2月23日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログにてご紹介した「一度読んだら絶対に忘れない英文法の教科書 」からテーマをいただいて書いていきたいと思いますが、第一回目のテーマは「仮定法現在」です。

本書は著者の底知れぬ深い知識を前提として決して逃げない姿勢で英文法に向かい合っているという点で私は心から著者を尊敬することになったのですが、その中でも最も印象的だったのがこのテーマでした。

私は自らが主宰する「文法講座(英文法の虎ノ穴)」で、英文法をストーリー化し、「ほぼ」すべての項目に意味の説明を加えている自負があるのですが、その説明を加えられない数少ない項目として、「仮定法において時制が一つずつズレる理由」がありました。

これについてはすでに「仮定法過去はなぜ現在なのに過去なのか」というブログにおいて、

「どうして想像の世界(現実とは反する)の話をするときに過去形を使うのかというと、『距離感』が共通しているからです。現在と過去には時間的には距離がありますし、現実と想像にも意識的な距離を示す仮定法でも使っているのです。」

という答えを見つけて明らかにしており、授業の中でも時折、この理由を受講者の皆さんにぶつけてみるのですが、実はあまり反応が良くありませんでした。

時間的距離と心理的距離を一緒にして考えるというのがあまりピンとこないようなのです。(私個人としては結構しっくり来てはいるのですが、、、)

本書で著者は、この部分においておそらくほぼすべての人が「しっくり」来るであろう以下のような説明をされており、しかもその説明の仕方のセンスがとても光っています。

「仮定法がこのような不思議な用法になった理由はキリスト教の普及によって聖書が英語で書かれることになったことにあります。ところが困ったことに当時の英語に敬語が存在しなかったのです。聖書は神と人間の契約書なわけで、敬語がないからと言って人間が使う動詞と同じ活用を使って聖書の内容を英語で記述することは許されないことだと考えたのです。そこで神官たちが注目したのが『時制の変化』だったのです。人間が神の領域の話をするときには時制を一段下げることで、自分の立場を下げ、神に対し畏敬の念を示すことにしたのです。考え方は日本語の謙譲語のような発想です。そして、仮定法をつかうということは現実にはあり得ない空想をするということで、すなわち神しか実現できない仮定の話をすることになり、同じように時制を一段下げ、神に対する謙譲語として話すようになりました。」

つまり、この時初めて英語においても「敬語」が生まれたというわけです。そのため、今でも丁寧表現には仮定法としてのwouldやcouldを使っているのです。

これだけでも、十分だとは思うのですが、著者である牧野先生がランゲッジ・ヴィレッジで講義をしてくださったときの冒頭の写真を利用した次のような説明に私はしびれてしまいました。

「神様に対する憚り(はばかり)に関するのはこの仮定法の時制のズレに限りません。こちらの写真は日本の神社である日光東照宮のものです。正面に四つの柱が建てられていますが、右から二番目の柱だけがそれ以外の三つと上下が逆になってしまっていて、このことを『逆さ柱』というそうなのです。そもそも神社を作るということは、人間界に神様の世界を再現するというとても恐れ多い行為なのです。(これはバベルの塔の考えと似ているかもしれません。)しかし、どうしても人間界に神様の世界を再現したいという気持ちを抑えられないならば、少しだけ人間の不完全性を一部に残すことで、『神様と同じレベルではとてもできませんが』という憚りを表現しているということなのです。この日光東照宮の逆さ柱に私は仮定法の本質を見たのです。」

まさに、「一度読んだら忘れない英文法の教科書」そのものでした。

 

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