日本人と英語

句動詞の難しさ

2026年5月3日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログでご紹介した「英文法以前#358」からテーマをいただいて書いていますが、第二回目のテーマも前回同様「英語の難しさ」についてです。

と言っても、前回は文法関係を見抜くことができないが故の「難しさ」としての「前置修飾と後置修飾」について見ましたが、今回はその逆で、文法関係は見抜けるが意味を取ることができない「難しさ」についての「句動詞」について見てみます。

この「句動詞」についてはこのブログでも今まで「しなやか英語」というランゲッジ・ヴィレッジのコンセプトのとても大切な要素と絡めて「句動詞における目的語の位置について」「句動詞とイディオムそして熟語の違い」「しなやか英語とは句動詞のこと」などいくつもの記事を書いてきました。

本書には、なぜ私たち日本人にとって「句動詞」が、文法関係は見抜けるにもかかわらず意味を取ることができないというなんとも取り扱いがやっかいな存在として立ちはだかってしまうのかについて非常に納得感の高い説明がありましたので以下にまとめます。

まずは著者による渡部昇一「アングロサクソンと日本人」からの引用を確認します。

「日本も、スタイルとしては、大和言葉的な雰囲気のものと、少し気張って漢字をずらずらっと並べた式の難しいのがある。こういうことは、西洋の中ではイギリスだけにみられることである。世界中全部調べたわけではないが、日本はイギリスと似ている、きわめてまれな国である。公用の外来語をたくさん使った文章と、それからもっと私的に情緒的な時は大和言葉的になるという、そういう二つのレベルがはっきり分かれている国なのである。」

なるほど、日本語に「見下す」と「軽蔑する」があるように、英語には「look down on」と「despise」があり、明らかにどちらも前者が普段使いの「しなやか」な表現で後者が改まった「ごつごつ」した表現と言えます。

そして、この二つの言語には、ともにもともとの独自言語がまずあって、後に他国の言語に影響されてその語彙を増やしながらそれを独自の言語の生態系に適用させていったという歴史があることを意味しています。

そのため、どちらにおいても先に「見下す・look down on」などの簡単なゲルマン系の語彙(の組み合わせ)を幼児期に無意識的に学習し、そして成長するにしたがって「軽蔑する・despise」などの音節が長めのラテン語系の語彙を意識的に学習していきます。

しかし、私たちの英語学習においては、学び初めの段階から、ゲルマン系の語だけでなく、ラテン語系の語彙も少なからず学び、高校英語でようやく、「句動詞」を本格的に学ぶという母語習得とは逆のプロセスをたどります。

つまり、英語学習の初期段階でこの「しなやか」な表現に対する慣れを作ることができていないという圧倒的な「初動の遅れ」が原因となり、簡単な語彙が集まって具体的な意味になるこの「句動詞」に対して、後々まで違和感、苦手意識を引きずるという構図ができてしまうのです。

このあたりのことを笹井常三「英語のスタイルブック」から以下の内容を引用されています。

「句動詞は英語を母語とする人にとっては幼児期、すなわち言語習得の最も初期の段階で身につけるものであり、彼らの言語活動の核になっている。日本人が外国語としての英語を学習し始めるのは通常の場合は中学以降であり、英語習得に最も重要な『幼児期』を体験できない。いわば、不安定な基礎の上で多音節の語彙や複雑な構文を使いながら英語と格闘していると言ってよかろう。」

ただし、ここで注意すべきは、「英語習得に最も重要な『幼児期』を体験できない」という指摘を、「だから英語は幼児教育でしか習得できない」という意味で受け取ってはならないということです。

一般的な日本人は当然ですが日本語を幼児期に学ぶ言語として選択し、すでにそれを母語として獲得してしまっているので、もはや幼児期に英語を習得するという過去には戻れないし、これからも制度として幼児にそのような機会を意味がある分量で提供することは不可能だという現実をとらえて、「仕方がない」という意味でこれを引用しています(確認はしていませんがそのはずです(笑))。

つまり、著者の引用意図は、現時点でも多くの英語学習者は「不安定な基礎の上で多音節の語彙や複雑な構文を使いながら英語と格闘している」し、もっと自由に英語を扱えるようになりたいと望むのであれば、その格闘に拍車をかけなければならないという叱咤激励に他なりません。

具体的には、前回の「前置修飾と後置修飾」と同様、この「英語の難しさ」を克服するために地道な努力が日本語と同じ分量とまでは言わなくとも必要だということになります

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