日本語の文末にバリエーションが少ない理由
2020年3月8日 CATEGORY - 日本人と英語
書籍紹介ブログにてご紹介した「英語の発想・日本語の発想」からテーマをいただいて議論をしていますが、第五回目のテーマは「文末のバリエーション」についてです。
ブログを書いていて困ることがあります。
それは、日本語では一文一文の最後が、「です」「ます」「た」などの決まった数種類に限定されてしまいがちだということです。
文章にはできる限り、変化を持たせ、読み手や聞き手を飽きさせない工夫が必要となりますが、日本語においてはそのためにできることが非常に限定されていると感じます。
一方で、英語にはその心配がほとんどなく、自然体で文のバリエーションを確保することができます。
このことについては、今までなんとなく感じていたことですが、その感覚を自分自身言葉にすることもありませんでしたので、その感覚自体無自覚に感じていたのだと思います。
ですが、本書にはこのことについてズバリ、その理由とともに指摘する部分がありましたので以下に引用したいと思います。
「外国の戯曲を翻訳している人が、語尾をどうするかが一苦労だという。うっかりしていると、せりふのどれもが『~です』『~した』のバリエーションとなり、変化の乏しい退屈な訳文になりかねない。これは日本語のセンテンスがたいてい動詞で終わるからである。それに引き換え、英語のセンテンスは多くが名詞で締めくくられ、文末は名詞が多い。名詞は数が極めて多い。名詞で終わる英語センテンスは簡単に変化を出すことができるのに対して、動詞で終わる日本語の文ではどうしても単調になりやすい。したがって、日本語では変化をつけるための特別の工夫が必要となる。」
本書では、その特別な工夫として、「た」で終わる文が続くと「した」「であったと思う」「と言っている」としたり、未来のことではないのに「であろう」などと、時制を無視してまでも変化をつけることを例示されていました。
あとは、「体言止め」がそれにあたるのでしょうか。
とは言え、いずれにしてもできることが非常に限定されていることに変わりはありません。
今回は、その理由がはっきりしましたが、これからも常にこの問題を抱えながら文章を書かなければならないのかと思うと憂鬱ですが、皆様にはこの根本的なハンディキャップが日本語にはあることをご了解いただき、これからも温かい目で見ていただければと思います。(笑)