異文化コミュニケーションの本質
2017年6月4日 CATEGORY - 日本人と英語
前回、書籍紹介ブログにてご紹介した「話すための英語力」より、いくつかのトピックを抜粋して以後何回かにわたって考えていきたいと思います。
本書には、「英語を話すための方略」という言葉が頻繁に出てきます。
辞書では方略とは、「はかりごと。計略。また、手だて。」とあり、つまり「英語を話す」という目標を達成するための方法ということになります。
日本人、特に社会人が英語を学ぶことを考えた時、最も興味が強いところであり、同時に最も難しいとされるのは、間違いなく「話すこと」でしょう。
「書くこと」や「聞くこと」という一方的なコミュニケーションに対して、「話すこと」というのは双方向な行為であることから、その方略は「最も難しい」ことになることは容易に理解できます。
本書において、その「双方向な行為」である話すことの難しさの根本的な要素を指摘されていた部分がありましたのでご紹介します。
「『新鮮な空気がほしい』という発言をどうとらえるか。会合の主催者や司会者に対してなら、『窓を開けるなどの対策をとってほしい』という要望かも知れませんし、窓際に座っている人に対していったのなら、『そこの窓を開けてもらえませんか?』という依頼になります。そのように話しかけたのに、(単なる社交辞令だと捉えて)『私もです。』と返して何もせずに済ましていたら、ピント外れの答えになってしまいます。その判断の決め手はその場の状況や聞き手が誰かというコンテクストです。」
まさに、「英語を話すための方略」の難しさの根本はここにあると思います。
そして、それは異文化コミュニケーションにおいては、絶対的な答えが存在しない中でその都度最適な答えを見つけ出すという姿勢が必要となってくるのだと思います。
この絶対的な答えが存在しないという点についても、本書には指摘されていた部分がありました。
「(著者が)大学生のころ、I am proud of daughter.というセリフを日本語に訳すときにどうすべきか困りました。『私は娘を誇りに思います。』という訳では、日本の親が自分の娘を人前で『誇りに思う』などとは言わないだろうなと思ったからです。その際、『親バカかもしれませんが、』と訳しました。しかし、後年翻訳学を学んでからは、『親バカ』という表現は日本人ならではの謙譲を反映しているのですが、英語母国語話者が言ったI am proud of daughter.には、決してそのような意図は含まれていないはずなのです。つまり、異文化理解の観点からは、英語のまま忠実に『誇りに思う』のほうがよかったのかもしれません。(一部加筆修正)」
この問題は非常に難しい問題だと思います。
日本語を母語とする日本人である以上、英語の中に日本語文化が入ってきてしまうことは完全に排除できず、そこに「ピント外れの答え」をしてしまう危険性が常に付きまといます。
著者のこの経験を逆に解釈すれば、『親バカかもしれませんが、』という日本語の表現を英語で伝えようとしたとき、あえてアメリカ人が絶対に言わないであろう、I am very embarrassed to say so, but,,,的なことを危険を承知で言ってみるということも重要ではないかということです。
日本人は日本人としての、アメリカ人はアメリカ人としてのアイデンティティを大切にしながら、英語をツールとしてコミュニケーションを図ればいいのです。
ただその際に、文化の違いを背景に「ピント外れの答え」をしてしまう危険性を認識しながら、双方が歩み寄ることが必要になります。
双方がともにこの姿勢をとることによって異文化コミュニケーションが実現されるという理解が世界中に広まっていくこと、これこそが、重要であり、この理解こそが国際共通語としての英語時代の「話すための方略」の前提なのではないかと思いました。