英語は論理的で日本語は文学的
2020年3月13日 CATEGORY - 日本人と英語
書籍紹介ブログにてご紹介した「英語の発想・日本語の発想」からテーマをいただいて議論をしてきました。
本書には非常に興味深いテーマがあふれており、数多くの記事を書いてきましたが、ようやく第七回目の今回が最終回です。
そのテーマは「英語は論理的で日本語は文学的か」です。
早速ですが、該当部分を引用します。
「英語のことわざはどちらかというと理屈っぽい言い回しを好むように思われる。日本語ではなるべく面白い表現へ移して、敢えて言えば文学的なところを出そうとしているものが多い。例えば、Once bit, twice shy.(一度かまれると二度目は用心深くなる)=羹に懲りてなますを吹く。英語はまことに直截明瞭であるだけに含みにかける。内容が内容だけに仕方がないかもしれないが、もう少しどうにかならないものかという気もする。一方で、日本語は論理にはなじみにくいところがあるが、文芸的には極めて優れていると言える。日本語が非論理的であったりするわけはないが、それはしばらく置くとして、日本語が詩的表現に適していることは異論のないところとしてよいだろう。」
私は、このことを「しなやか英語辞典」サイトの運営において痛切に感じてきました。
このサイトは、例えば、「あてにならない」のような「しなやか日本語」すなわち、より身体感覚に近い日本語の表現を英語ではどのような表現になるのかを、ランゲッジ・ヴィレッジの講師から聞き出すところを撮影した動画と併せて辞書化したものです。
この場合、「あてにならない」=「unreliable」となります。
どうでしょうか?
「あてにならない」という日本語の語彙は非常に身体的で面白みがありますが、「unreliable」という英語の語彙は「信頼できない」というまさに直接的、論理的な説明語彙となっています。
この違いは、この「あてにならない」に限ったものではなく、スタッフが、日常の中にある面白い「しなやか日本語」を探し出しても、実際にネイティブ講師から英語を引き出そうとすると、「なんだ、そうなっちゃうのか」とがっかりさせられるような英語の語彙が返ってくることが非常に多いのです。
このことからも、私は著者と同じく「英語は論理的で日本語は文学的」という評価に一票を投じる者です。
そして、このように考えるからこそ、毎年のノーベル文学賞の受賞者の選定には不満を抱かざるを得ません。
というのも、ノーベル文学賞を審査する人たちが、日本語の「文学的表現」を正当に評価できないから、日本人の受賞頻度が現状にとどまっているのであって、本来のノーベル文学賞を受賞する日本人の数は、もっとずっと多いはずだと確信しています。
また、日本人が「口下手」のため、欧米人と比較して授業などでの発言が圧倒的に少ないという評価もあります。
しかし、この評価に関しても、私がアメリカ留学時代に痛切に感じていたことがあります。
それは、授業中の発言については確かに欧米人は熱心ですが、そのほとんどが先ほど教授が言ったことをなぞるだけのような分かり切ったものであることが多く、その人独自の価値ある発言は少ないということです。
逆に、私たち日本人は、発言するからには独自の視点に基づく価値ある(ある意味文学的な)発言をしようと努力します。
そうしなければ、他人の時間を奪ってしまうことにつながると考えるからです。(しかし、そのような価値はそう頻繁に生み出されることはないので、結果的にほとんど発言しないということになりますが。)
しかし、頭の中では常に、その努力をしている比率は確実に日本人の方が多いと言ってよいと思います。
これも日本語と英語における論理、すなわち「気持ち」の違いによって生じるものだと思いますが、皆さんはどうでしょう?