言語が本能である証拠
2019年5月29日 CATEGORY - 日本人と英語
書籍紹介ブログにてご紹介した「言語を生み出す本能」から、いくつかテーマをいただいて書いていきたいと思いますが、第一回のテーマは「言語が本能である証拠」です。
私は、人間が外国語学習を行う上での一つの大きなモチベーションとして、人間は言語で考えるのであるから、母語が思考の基礎として機能し、母語以外の言語を学習することは、自分にない新たな物の見方を発見することにつながるという考えに賛同してきました。
しかし、本書のタイトルはその考えを真っ向から否定するものでした。
具体的には、すでに書籍紹介ブログでも書きましたが、チョムスキーの「普遍文法」という考え方を基礎として、人間にとって言語を操る能力は「本能」として備わっているということを多くの「証拠」を提示しながら証明していくといったものになっています。
ここでは、その証拠を紹介したいと思います。
「地上のあらゆる場所に複雑な言語が存在するという事実は、言語が文化の産物などではなく、人間の特定の本能によって生み出されるのではないかという疑問が湧く最大の理由でもある。文化の産物は、文化圏ごとに精緻さの度合いが大きく異なる。骨に刻みをつけて数を数え、木をこすり合わせた火で炊事をする集団がある一方、コンピューターや電子レンジを使う集団もある。しかし、言語はこの法則には当てはまらず、石器時代さながらの部族はあっても、石器時代さながらの言語は存在しないのだ。」
どうでしょうか、私としてはこの説明はなかなか説得力のあるもののように思えました。
そして、もう一つの証拠をあげたいと思いますが、この説明をする前に前提知識として「ピジン(言語)」の説明をします。
これはかつて、たばこ、綿花、コーヒー、サトウキビのプランテーションにおいて、母国語を異にする奴隷や労働者を集め共同作業をさせる際に、入植者や農園主の言語から借用した単語を並べて当座しのぎの混合語を作らざるを得ませんでした。
この混合語のことを「ピジン」と言います。
「ピジンがある時、一挙に複雑な言語に変身することがある。その変身の条件はただ一つ、子どもの集団が母語を獲得する臨界期に、両親の母語ではなくピジンに接することである。子供が両親から引き離され、一ヶ所に集められ保育される仕組みのプランテーションで、面倒を見る係がピジンで話しかければ、この条件が満たされる。子供たちは、断片的な単語の連なりをマネするだけでは満足せず、複雑な文法を織り込んで、表現力に富んだ全く新しい言語を作り上げる。子供がピジンを母語とした場合に出現する言語を『クレオール』という。クレオールの文法が概して子供の知的活動の所産であり、しかも、その子供たちが両親の言語の影響をほとんど受けていないとすれば、クレオール文法は、脳に内在する文法的能力の働きを垣間見る絶好ののぞき窓ではないか。」
言語を文化の産物としてとらえるということは、親から子へそして孫へとそのシステムが受け継がれていくからこその他なりません。
であるならば、上記の説明にあるように「その子供たちが両親の言語の影響をほとんど受けていない」中で、作り出されたその複雑なシステムというのは、まさに「脳に内在する文法的能力の働き」によって作り出されたと考える一つの大きな根拠としてとらえてもおかしくはないように思えました。