日本人と英語

なぜ日本語の発音は英語の半分でやって行けるのか?

2014年7月27日 CATEGORY - 日本人と英語

発音

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回の記事 に引き続いて今回も「日本語と外国語」のネタをご紹介します。それにしても、本書は日本語と外国語を考えるうえで非常に参考になる面白い事柄が満載です。

今回は、タイトルの通り、発音の数が45個ある英語に対し23個しかない日本語がなぜ、対等に世の中の事柄を整理し、表現できているのかという論題です。

言葉は、音の組み合わせで成立しているという見方もできる中で、半分しか発音がないのであれば少なからず問題が生じるはずです。この問題の例を著者は以下のようにコンピューターで説明しています。

コンピューターの世界はすべて0と1の組み合わせで成り立っています。例えば、犬を0110、猫を1001と決めてしまうように。このように世の中の森羅万象をこの0と1だけで表現するとなると、その語彙が身近でなく重要度が低くなるにつれて、0と1の数が非常にだらだらと長くなってしまうことになります。コンピューターであれば、それでも短時間で処理することができるでしょうが、これが人間ですと処理も記憶も確実に不可能となってしまいます。

発音の数が英語と比べ日本語が半分しかないということは少なからず、この現象に近くなるということです。しかも、日本語にはこの発音が少ないという条件にさらに輪をかけて不利な制約があります。

それは、日本語の音は子音だけで存在できないということです。例えば英語なら「met」のように t だけを付加して「me」とは別の言葉として存在させることができるのに対し、日本語は t には必ず aiueo のいずれかの母音をつけなければならないのです。

これによって、先ほどの問題はより深刻度を増すことになります。

この不利な状況を克服して英語に劣らない語彙数を維持することができることを可能にしているのが「漢字」のもつ視覚的要素だと著者は言います。

そもそも漢字は中国から入ってきたものであり、それ以前は日本人は文字を持たない民族でした。現在の漢字の訓読みが、いわゆる大和言葉、すなわち本来的な日本語です。例えば、「かたい」という言葉が大和言葉ですが、漢字が日本に入ってくるまでは、「物事の変化のしにくさ」についての語彙はこの「かたい」のみという非常に抽象度の高い言葉だったことになります。

それが、漢字の導入によって同じ「かたい」という音声でも漢字の視覚性を活用することで「固・堅・硬」というそれぞれの対象の性質を細かく具体的に表示することができるようになりました。また、漢字の導入は「音読み」として漢語(中国語)を日本語に取り入れることで、語彙のバリエーションを圧倒的に増やすことに成功しました。

漢字の導入の効果はそれだけにとどまらず、この音読みと訓読みの両方を日本語という一つの言語の中で両立させることが、前回の記事 の中で紹介した「日本語の専門語彙が簡単な理由」にもつながっています。

ただし、発音の少なさによる問題は音声上は解決されておらず「興業」については「コウギョウ」では特定不可能で「おこすほうのコウギョウ」という修飾が必要となるというわずらわしさは否定できません。

戦後日本では、漢字を使用していることが近代化を妨げるなどといった議論が起き、以前の記事 で紹介したように「廃止論」がでるほど、漢字は忌み嫌われた存在でした。しかし、我が国が漢字導入以来ずっと積み重ねてきた漢字の日本化はそう簡単に切り崩せるほど軟なものではなさそうだというのが今回本書を読んでの感想です。

言語には、優劣がない。あるのはその言葉を使ってきた民族の何を優先するかがその仕組みに表れている。その結果、いずれかの部分で優れていれば、それ以外の部分では劣っている。この真理を理解することで、「外国語を学ぶことはその違いを楽しむこと」だということに改めて気づかされたように思います。

 

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