日本人と英語

マイノリティー言語を守ることの難しさ

2015年4月22日 CATEGORY - 日本人と英語

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以前に書籍紹介ブログにおいて「英語支配とことばの平等」という本を紹介して著者の「英語支配を食い止めるべきだ」という主張に対して私は「荒唐無稽」だと批判しました。

詳しくは そちらの記事 をお読みいただきたいのですが、「英語支配」は実質的な必要性に立脚した現象なので、これを人為的に抑え込もうとすることは大きな非効率性を引き起こすことになるし、いかなる政策的な対処も実質的な必要性に反する場合には、失敗に終わることは目に見えているからです。

それでも、やはり行き過ぎた「英語支配」には問題があるとする著者の気持ちは分からないわけではありません。そこで、今回のブログでは、著者の主張する「英語支配」に対抗してマイノリティ言語を守ることの難しさについて考えてみたいと思います。

まず、著者は全ての言語には「言語権」があると言います。

言語権とは、「自己もしくは自己の属する言語集団が、使用したいと望む言語を使用して社会生活を営むことを、誰からも妨げられない権利」だとされます。

この考えがあるからこそ、著者はマイノリティ言語は守られなければならないし、「英語支配」のような他の言語の脅威になるような現象は止められなければならない言うのです。

私自身、日本人として英語を使いながらも日本人独特の言語と文化に培われた独自性を前面に出して世界に価値を提供していくべきであり、英語が国際共通語的な位置を占めたとしても、言語文化の多様性を大切にする必要があると考えています。

しかしです。今回、著者による著作を読むことでこの問題について考えれば考えるほど、この問題が根本的に難しい要素を含んでいることが分かってきました。

それは、この「英語支配」におけるマイノリティ言語の弱体化は、英語支配をしようと圧力をかける側ではなく、マイノリティ言語の使用者の側から進んでいく側面が強いという事実です。

言語を使用することの目的には、大きく分けて①思考の基礎として利用すること、と②意思の疎通の道具として利用することの二つがあると思います。

このうち、前者においては、「自己もしくは自己の属する言語集団が、使用したい」と望んでそれを選択することには何の問題も生じないと思います。しかし、後者においては、そう望むだけでは成立しないという問題が生じてしまいます。

このことは、「ネットワーク外部性」という考え方で説明ができます。

「ネットワーク外部性」とは、ある財・サービスの利用者が増加すると、その財・サービスの利便性や効用が増加すること。例えば、電子メールや携帯電話などネットワーク型のサービスを利用する人が増えると、より多くの相手と連絡をとれるようになり、便利になる。また、PCのOSや映像記録方式の規格などで、ユーザーが多いほど多様なソフトウェアが供給され、便益が増加するようなことです。

つまり、「英語支配」の動きはそれが拡大すればするほど、英語の「便利さ」が高まり、それを使いたくなる人が増えるということです。逆に言えば、マイノリティ言語の「不便さ」が高まり続け、その言語を使用することによる不便さが大きくなっていくことで、自ら率先して英語に乗り換える動きが高まっていくというものです。

そして、その動きは最終的には、言語権の定義の中でうたわれている、使用したいと望む言語を使用して「社会生活を営むこと」が著しく困難になってしまうことから、その言語の言語権の存在条件が崩れてしまうということです。

一般的には、いかなる言語にも優劣をつけられないとされています。いや、むしろ私は、英語よりも日本語の方が優れた部分があると思っています。しかし、それは、先ほどの言語を使用する二つの目的のうちの①思考の基礎として利用することに関することについてのみであって、②意思の疎通の道具として利用することに関しては、明らかに価値に優劣が付けられてしまうということだと思います。

著者には、この現実について説得力を持って「英語支配」に対する対処方法を提示する努力をしていただきたいと思います。

 

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