日本人と英語

冠詞~日本人にとっての永遠の謎~その2

2015年5月27日 CATEGORY - 日本人と英語

悩む

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回、「日本人にとっての永遠の謎」と題して、冠詞ほど、そのエッセンスを覚えても、なかなか個別の事例をそのエッセンスだけでは説明することができず、いつまでたっても自信をもって処理することができない不完全燃焼感の強い文法項目はないという話をしました。

そして、そのエッセンス、すなわち「定冠詞」と「不定冠詞」の定義を以下のように明らかにしました。

「話しをしている人(と、聞いている人)の頭の中でその名詞のイメージが定まっている『定冠詞』か、定まっていない『不定冠詞』かということ」

前回の記事 を書いた後、引き続いてなぜ、このように個別事例によってあいまいさが生じてしまうのかについて考えてみたのですが、実はひとつの原因に気がついたような気がするのです。

というのも、上の定義の中にある(と、聞いている人)という部分は、本書の中で著者が言っていることで、実は私は自身の講座の中では言っておりません。ですから、前回の記事 の中ではそれは存在していません。

なぜなら、私は(聞いている人)の頭の中にそのイメージがあるかどうかなど、話をする人が分かるはずがないと思うからです。ですから、そのイメージは全て話をする人の想像によるもので、実に主観的なものということになります。

昔よくお笑いグループのコントで、「あれをあれして、それをそれしてください。」のようなフレーズを耳にしたものですが、まさにこんな感じです。コントでなくても、私の地元では、おじいちゃん、おばあちゃんが、こんな感じでしゃべってきます。(笑)

田舎育ちの私は今でもおぼえていますが、時々都会育ちの友人を家に連れてきたりすると、祖父が私たちにこんな感じでじゃべりかけてきます。もちろん、私としては、祖父の言う「あれ」「それ」のイメージを共有することができますから、先ほどの定義に(と、聞いている人)という条件を入れたとしても、おじいちゃんが「あれ」や「それ」を「定冠詞」として使用したことは正しいということになると思います。しかし、祖父は私の友人とそのイメージを共有していると「信じて」いるわけですが、都会から来た友人にとっては、実際には共有できていないわけで、「定冠詞」として使用したことは正しくないということになります。

このような、極端?なケースでなくても、人間の認識については個人差が大きいわけです。

そのため、「話しをしている人(と、聞いている人)の頭の中でその名詞のイメージ」の共有に関するギャップが、いつまでたっても自信をもって処理することができず不完全燃焼感が強く残ってしまう一つの大きな原因なのではないかと思うのです。

しかも、同じ日本人同士であってもそのギャップが存在するわけですから、我々日本人と彼らのギャップはもっとずっと大きいはずです。これに気がついたことで、あまり冠詞のことで神経を悩ます必要はないと思うようになりました。

これからは、外国人講師の皆にネイティブチェックをしてもらって、下書きが、修正で真っ赤になって戻ってきても、平気でいるようにします。(笑)

 

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