日本人と英語

宗教改革と英語

2020年5月24日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログにてご紹介した「秘術としての文法」からテーマをいただいて書きたいと思いますが、今回のテーマは、「宗教改革と英語」についてです。

実は、この「宗教改革と英語」というテーマは、以前のブログでも何度か取り上げています。

まずは、「自国語の貧しさとの出会い」という記事、そして「英語には文法がなかった」という記事の二つです。

「語彙」と「文法」という言語の基本部分への整理・改善へのモチベーションが、当時「聖書」や宗教儀式に関する主導権がラテン語を扱う宗教者の独占物宗教改革であったものから、土着語である英語への「翻訳」によって民衆のものとなったことによって爆発的に高まったという話です。

今回は、この宗教改革と英語のつながりをもう少し立体的に流れを重視して見てみることで、その当時の感覚を体感的に理解してみたいと思います。

本書におけるその該当部分を以下に引用します。

「中世のヨーロッパ人はローマ法王を神の代理者であり、自分たちの牧者であると考えていた。羊は牧者に従うのが当然であり、命令に従うこと自体に価値があるとされていた。修道院長の命令を『神の命令のごとく考えて受諾し、いささかも猶予しないで実行する』ことを当然のこととしていた。しかし、ルターはアウグスト会の修道士でありながら、ローマ法王の判断にも、修道院の判断にも従わず、『自分の』判断に従う道を選んだ。中世のヨーロッパの教会は、一言で言えば普遍主義と言ってよい。その一つの現れとしてラテン語を考えることもできる。ヨーロッパ中が一つの教会に服したように、一つの言語、一つの文法に服したのである。その名残は、グラマースクールという言葉にもみられる。この種の学校はラテン文法を教えるための学校で、その生徒はグラマーボーイと呼ばれていた。今ならばスクールボーイに当たるわけだから、近世初頭においては、ラテン語文法=スクールという等式が成り立っていたことになる。」

本論と関係ないですが、キリスト教(プロテスタント)で言うところの「牧師」って、羊(民衆)に対する牧者という意味からきていたのですね。このあたりからも、宗教の本質が垣間見られるような気がします。

本論に戻り、もう少し引用します。

「宗教改革の精神は普遍に対して『個』を主張する立場と言ってよかろう。同じように、ラテン語という普遍的なものに対立させて、自分の方言を等価なものとして主張する。従って、ラテン語に文法があれば自分の方言にも文法があるべきだと考える。この主張こそが、近世初期において英語(ドイツ語やフランス語も含め)の文法書を生み出させる根本動機になったのであった。」

ただし、等価なものだと主張はしても、基本的にはラテン語の文法規則を当てはめるというのが基本となるわけで、ラテン系言語であるイタリア語やフランス語などと比べて、ゲルマン系言語である英語については、その当てはめ作業に非常に苦労があったようです。

そしてそれは、以下のような矛盾をはらんでいました。

「英語はラテン語に対しての劣等感を持っていた時代が長かったため、英語に対する誇りを示そうとすればするほど、英語の文法がラテン語によく重なることを示さねばならぬ、英語の独立権を主張すればするほど、英文法がラテン文法に似ていることを示すという逆説的状況が起こったのであった。」

このような苦難の道を通りながら、英文法というものが、現在のような形で整理されていったのです。