日本人と英語

意味のある言葉を話す能力

2020年6月26日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログにてご紹介した「英語コンプレックス粉砕宣言」からテーマをいただいて議論をしていますが、第四回目の今回が最終回となります。

テーマは「グローバル社会で求められている能力」についてです。

このことについて議論するためには、前回同様、「辻褄」の合わないことを言っているのに、それを「おかしい」と思えないことを問題にする必要があります。

結局、それは英語の問題ではなく国語の問題ということになります。

このことについての本書における指摘部分を以下に引用します。

「学習指導要領では、『言語能力』を『学習の基盤』として教科を横断した育成を求めていて、国語科は要であると述べています。数学だって、ある意味では国語ですから。解く段取りは全て日本語で説明できる。説明できない人は永遠に解けないんですよ。あるいは社会科も理科も基本的には言語です。英語も同じ。日本語で説明できない様では、理解したことになりません。英語で考えればOKというのは無茶というものです。極論すると、日本語を徹底的に訓練して意味のあることを話せるようになれば、あとは夢の自動翻訳機の登場を待てばいい。そうすると、どんな言語にも訳せるわけです。つまり、『意味のある言葉を話す能力』というのは、全世界共通で使える貨幣を手に入れるようなものです。」

言葉の本質についての説明で、もうこれ以上の金言はないと思います。

私も、すべては母語における論理的思考能力がOSであって、母語以外の外国語は所詮アプリに過ぎないということはこのブログで訴え続けてきました。

OSを何よりも優先して鍛えるべきタイミングである小学校での貴重な時間をアプリのダウンロードごときに使用するなんて馬鹿げている、というのが私の「小学校英語反対論」のキモなのですが、本書は制度として始まった以上、できる限り良いものにしようという趣旨ですので、これ以上の愚痴は控えます。

ただ、その良いものにしようという方向性は、この言葉の本質を外しては絶対にありえません。

「英語」という教科が、「数学」「理科」「社会」などと同様、グローバル社会で生きていくための強力な武器として機能するために、学校行政は知恵を絞る義務があることは自明です。

しかし、そのずっと前の段階で、「国語」という教科が、すべての教科の基礎となるという認識を持った上でなければ、絞られる知恵は決して意味のあるものにならないこともまた自明です。

 

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