日本人と英語

ユーモアは成熟の証

2018年2月21日 CATEGORY - 日本人と英語

前回、書籍紹介ブログにてご紹介した「英語のユーモアを磨く」からトピックを抜粋して考えてみたいと思います。

そのトピックとは「ユーモアは成熟した者にしか作れないし理解できない」という真理です。

書籍紹介の記事でも書きましたが、日本人はユーモアをダジャレと同列に考える傾向にあり、ユーモアを過小評価している傾向にあると思います。

本書において、高度なコミュニケーションの技法であるユーモアの真髄について理解できる件がありましたのでご紹介します。

「小国ニュージーランドの人たちは何かにつけて強大な隣国オーストラリア人を茶化すトゲのあるジョークが好きです。これが一方的なものであれば軽蔑、差別、侮辱となりましょうが、面白いのは、オーストラリア人も負けじとニュージーランド人を茶化すジョークを連発していることです。いわば完全に相互性が成立しているのです。そして、誰もこれを個人的に受け止めず、ましてや憤慨したり怒ったりなどせずに応酬を楽しんでいます。」

ニュージーランド人は自分たちの方が洗練され、知的水準が高いと自負しており、オーストラリア人を見下したがります。具体的なジョークをあげるとすると、

「What’s the difference between yogurt and the Aussie?(ヨーグルトとオーストラリア人の違いは?)」の答えとして、

「Yogurt has culture.(ヨーグルトには文化・酵母菌がある)」と言うことで、オーストラリアには文化がないと言っています。

逆に、オーストラリア人はニュージーランド人のことを小国なのにいつも突っかかってきて生意気な連中だとみているようで、こんなジョークが飛び出します。

「What’s the definition of a well-balanced Kiwi?(完全に均衡のとれたニュージーランド人とは?)」の答えとして、

「A fellow with chips on both shoulders.(両肩にチップを載せた男のことだ。)」と言っています。ここでchipとはポーカーチップのことで、喧嘩を売る男が自分の片方の肩にチップを載せ、これをとれるものなら取ってみろと相手を挑発するときに「have a chip on one’s shoulder.」という表現を使うので、(片方の方だけでなく)両肩にチップを載せてバランスをとることにかけているというわけです。

こんな調子で茶化しあってそれを楽しんでいるわけですが、兄弟げんかみたいなもので、常にその限度を心得ており、決定的な憎しみに発展しないということのようです。

これはニュージーランドとオーストラリアだけではなく、アメリカやカナダ、イギリス・スコットランド・アイルランドの間でもそのような限度を知る関係がみられるようです。

また、この点がものすごく微笑ましいと思ったのですが、両国間で茶化しあっているのを見た第三者が調子に乗って、どちらか一方に加勢し、茶化した場合には、両国は団結してその第三者のそのジョークを受け入れないと言います。

これこそが、「成熟」した「粋」な関係の証と言えるような気がします。

この「成熟」した「粋」な関係になるためには、どのくらいの時間が必要なのか、いや時間だけの問題ではないのかという疑問がありますが、少なくとも両国の間で、過去に起こった出来事について、詫びるべきところはすっきりと詫び、時間をかけて理解をしあうという過程が必要だろうと著者は言います。

その意味では、ドイツとフランス、日本と韓国、日本と中国の間では、いまだそのようジョークの応酬がとてもできるような状況ではないということについて、反省してみる必要がありそうです。

まさに、高度なコミュニケーションの技法であるユーモアの真髄に触れた気がしました。

 

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