日本人と英語

なぜ教育政策は誤るのか

2018年10月12日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログにてご紹介した「これからの英語教育の話をしよう」から、10テーマをいただいて議論をしていくシリーズの第二回、テーマは「なぜ教育政策は誤るのか」です。

前回、小学校への英語教育導入、しかも「外国語活動」から成績の評価を伴う正式教科化という教育政策は、教育史上まれに見る大転換であるにもかかわらず、その根拠は非常に脆弱、いやほとんど根拠とは言えないものであるという著者の指摘を紹介しました。

つまり、言語教育の専門家から見れば、明らかにこの教育政策は誤っていると言わざるを得ないものです。

著者はこの「なぜ教育政策は誤るのか」の理由を「合成の誤謬」すなわち、個人個人としての良い結果が出てほしいとの思いが積み重なった結果、集団全体にとって極めて不合理な結果となることをあげています。

なぜなら、教育行政は専門家のみが決定に関わっているわけではないからです。

この教育行政の決定プロセスの中で、一番遠くにいる人たちは、財界、政治家、一般市民。その次は、予算の配分を司る財務省、そして一番近い人たちが、政策の直接の決定主体としての文科省とそこへ助言をする教育専門家や現場の教師です。

ですが、問題なのはこれが、遠くにいる人たちこそが、決定の土台となりその人たちの影響力の上により近い人たちがいて、最終的な決定をするときには、そのリソースや考え方が非常に限定されてしまい、その結果、「合成の誤謬」が生じざるを得ないというのです。

一番わかりやすいのは、有権者である一般市民の投票で政治家が決まり、その政治家が行政を司ります。そうなると、一番の土台は一般市民ということになりますが、彼らは専門知識から最も離れたところにいる人たちです。

著者は、専門家とそうでない人たちの一番大きな違いは何かについて以下のように述べています。

「専門家以外の人は知識が不足しているため、多種多様な条件を同時に考慮に入れて思考ができない。その結果、条件を『定数』として、しかも最善の状況を念頭に置いて結果を考えてしまいます。」

これは例えば、日本語と英語の距離や日本という国における英語の位置づけなどを無視して、「他国でやっているんだから日本もやるべき」といった稚拙なレトリックがグローバル化に乗り遅れてはいけないという焦りによって優先させられてしまうことが例として挙げられます。

しかも、このことは「経済」や「医療」といった分野よりも、「教育」の分野において色濃く生じがちです。

なぜなら、「教育」は、一応誰もが専門家ではなくても「経験者」だという自負があるからです。

経済や医療については、誰もが専門家に任せるべきであると認識できるけれども、教育については誰もが「一家言」持っているというわけです。

こうして、専門家の意見を最優先すべき政策決定が、一般の意見を反映した政治家や企業人の影響力を強く受けてしまい、本来言語にまつわる様々な条件を『変数』として扱わなくなってしまうのです。

これが「結論ありき」の教育行政の大きな理由のようです。

◆この記事をチェックした方はこれらの記事もチェックしています◆