日本人と英語

「文法」に対する望ましい姿勢

2020年5月31日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログにてご紹介した「秘術としての文法」からテーマをいただいて議論をしていますが、第四回目(最終回)のテーマは、「文法に対する姿勢」についてです。

今まで三回にわたって宗教改革から始まった「英文法」の発展過程について見てきましたが、最後にある一人の文法学者(本人は謙虚にも素人と自認)をご紹介して、「文法」との付き合い方の本来あるべき姿を示したいと思います。

その人の名前は、リンドリ―・マレー。

本書の著者が、「英文法」の発展の歴史において最終的に「統一者」と評されている人です。

以下、彼のプロフィールと彼の英文法との関係性についての記述を引用します。

「マレーは元来アメリカ生まれのクエーカー教徒であり、すこぶる成功した弁護士である。そして、38歳の時にすでに一生悠々自適できるだけの財産を作り上げたので、イギリスのヨークに近い所に転地してきてそこに定住した。英文法を書くようになったのも、まったく偶然と言ってよく、野心の要素は少しも入っていない。彼は読書を愛し、植物を愛していたので、広大な植物園を作り、そこで本を読んで暮らしていた。たまたま近所の学校の教師たちが出入りするようになり、学校で使用する『手頃な』英文法書がなくて困っているということで、マレーに執筆を依頼した。彼は最初はその資格がないとして辞退していたが、懇望黙し難く、一冊の英文法書をまとめたのであった。謙遜な彼は自著のことを『著作』と言わず、『編集物』と呼び、自分のことを『著者』と言わず『編集者』と言っている。なるほど内容を少し検討すれば、それはそれまでの文法学者の考えを発展させて書いたことが分かる。マレーは文法の専門家という自覚も自負心もなく、彼の常識がまずまず妥当と考えるものを規則として示したのである。文法はもとより論理と習慣の絡みあったものであり、その意味では法理と人情の絡みあった裁判の仕事と似ている。理屈に偏りすぎてもよくないし、習慣や人情になじみすぎてもいけない。マレーはその感覚を持っていた。彼が法律家として常ならざる大成功を収めたのは、情理のバランスのとり方がうまく、何でも示談にして双方を満足させたからだという。このバランスのセンスが英文法にも生きてくるのである。」

私は、マレーの英文法に対する姿勢がまさに、すべての英語学習者にとっての理想の形だとこの文章を読んで確信しました。

もちろん、英文法学者を目指すのであれば別です。

しかし、日本におけるほぼすべての英語学習者は、そうではないはずです。英文法はあくまで英語をツールとして使うための「手段」として必要としているはずです。

その際には、その「厳密性」ではなく、「情理のバランス」すなわち、その文法をいかに「会話」という生活行動につなげるのかとうことが重要となることは言うまでもありません。

すなわち、「文法」は誰か特定の人間がルールに基づいて作ったものではなく、既に存在しているものを分類し、後から理屈を付けたものに過ぎないので、どう一つの筋で整合性をとろうとしても、どこかでほころびが出てしまうものです。

であるなら、不完全ではあっても、万人にとって最も納得の得やすい最小公倍数的な「統一性」と「体系」をもたらす「理論」が最も必要とされるということです。

その「最小公倍数」を編み出す基準は何かという答えとして、「情理のバランス」という一言を挙げられていたことに私は非常に大きな感動を覚えました。

彼の「英文法 English Grammar 1795」は、ひとたび出版されるや、瞬く間に英語圏を席巻し、少なく見積もっても数百版2000万部は出ただろうと言われることもうなずけます。

 

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