日本人と英語

日本語の抽象語があやうい理由

2020年1月12日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログにてご紹介した「わたしたちの英語」から、いくつかテーマをいただいて書いていますが、第四回のテーマは「抽象語の抽象性」です。

現代の日本語が本来の日本固有の大和言葉、中国から輸入された漢語、それから日本が西洋の概念を輸入してそれを漢字を組み合わせて表現した和製漢語とによって構成されていることは、以前の記事にて書きました。

その記事の中では、「それによって、日本語は『やわらかさ』を犠牲にして『厳密性』を手に入れた」と表現しました。

本書では、この「厳密性」を獲得するために犠牲にされた「やわらかさ」に着目して、その「やわらかさ」とは一体何ものなのかについて、指摘されていましたのでその部分を引用します。

「私が大学一年の時に、ドイツ語の先生がこんなことを言いました。『ドイツ語は構造がきちんとしているから論理的だと言われる。しかし、ドイツ語が優れているのは名詞の作られ方だ。身体感覚から抽象語が作られる。』そう話して、例を挙げました。ドイツ語で『概念』は『Begriff』です。これは動詞の『begreifen』からきています。意味は『理解する』『考えつく』ですが、『つかむ』『手で触れる』という意味があります。つまり、この動詞は日常でもよく使われる単語です。どうでしょうか、日本語の『概念』とはずいぶん言葉の持つ重さや日常生活における溶け込み具合が違うように思います。ドイツ語では、具体から抽象への原則が生きていますね。例えば、『暑い』が『暑さ』になるようなものです。では、『概念』という言葉を日本の子供たちはどうやって学んだのでしょうか。私には思い出せませんが、国語の時間に小論文か小説を読んだときに、その中に入っていたのかもしれません。そして、辞書で調べたかもしれません。試しに今、手近の『広辞苑』で調べてみると、『事物の本質を捉える思考の形式。事物の本質的な特徴とそれらの関連が概念の内容。概念は同一本質を持つ一定範囲の事物に適用されるから一般性を持つ』とあります。これでは直ちに理解できません。日本語の『概念』はドイツ語のように身体性を持った動詞と結びついていません。だとすると、日本人はきちんとこの単語の意味を抑えないまま、雰囲気で使っていると言えませんか。」

先の記事の中で私は、「日本語は『やわらかさ』を犠牲にして『厳密性』を手に入れた」と表現した時は、ここまで厳密にその意味をとらえていたと言えるのか正直自信が持てません。

それくらい、この引用部分の表現には強い納得感がありました。

私たちが使う抽象語が、自分たちが時間をかけて作り上げたそれこそ「概念」ではないため、自らの腹にストンと落ちるような理解をすることなく、雰囲気で使わざるを得ない状況にあるということです。

日本語を母国語として使用する日本人でさえ、「借り物」と感じざるを得ないのであれば、その日本語を外国語として学ばなければならない外国人にとってはどのような代物になってしまうのでしょうか。

日本ムラという超高コンテクスト社会の中であるから、このように概念が上滑りした状態でもなんとか、通じているわけですが、グローバル社会という超低コンテクスト社会になれば、もはや言語としての機能を果たせるかどうかといった心配さえしてしまいます。

この点についても、日本語という言語の危うさを理解する必要が私たち日本人にはあると思います。

 

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