日本人と英語

発音記号の謎

2019年1月25日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログにてご紹介した「英語とは何か」よりテーマをいただいて書いてきましたが、第三回目の今回が最終回です。

最終回のテーマは、「日本人がどうしても読めない発音記号」についてです。

現在、私が主宰する「中学三年分の文法を血肉にする講座」の2泊超特急コース5泊快速コースでは、文法とは関係はないのですが、いずれも「20分で発音記号をマスターする」という一コマを入れています。

このレッスンでは、文字通り20分で発音記号を「ほぼ完成」させることができるのですが、それは「ほぼ」にとどまる、つまり100%完璧にはどうしてもできない部分がありました。

なぜなら、12歳くらいまでに英語を生活言語として使用した経験のない人には絶対に習得できない「発音の違い」がどうしても存在してしまうため、私を含めそのような日本人はその違いをどうしても把握することができないからです。

ですが、発音の不完全性はどうしても存在してしまうけれども、それは無視しても大丈夫なものです。なぜなら、それは文法による文脈づくりで十分カバーされるからです。

どうしてもできない発音があることを自分自身が認識していれば、その発音をせざるを得ない時には、少しだけ文脈づくりを丁寧にすれば、十分乗り切れるというわけです。

ですから、私は堂々と「それについては諦めてください」と言っています。

私は、このことをもって「英語の完璧な発音には臨界期説は成立するが、英語の習得自体には臨界期説は成立しない」という説に立脚しています。

以下、具体的に説明します。

私が講座の中で「諦めてください」と言っている代表的な発音が「ʒ 」と「ʤ」の違いです。そして、これを私のこの講座で「どんな質問にも答えます」としたポリシーのほぼ唯一の例外だとしてきました。

ところが本書には、この違いに関するドンピシャの説明があったのです。

第一回目の「英語の耳」にしても、今回の「ʒ とʤの違い」にしても、まさに書籍紹介ブログ「英語とは何か#197」にて書いた「何とも言えない小気味よさが納得感につながっています。」という感想の源泉です。

それでは、皆さんにも納得していただきましょう。

「私には『ʒ 』と『ʤ』という発音記号の違いがまったく分かりませんでした。これらはカタカナで表記するとどちらも『ジャ』『ジ』『ジュ』『ジェ』『ジョ』となるのに、ある単語では『ʒ 』が使われ、別の単語では『ʤ』が使われている。同じ音にしか思えないのに、どうしてなのか私には納得がいきません。実は、記号が違うということは、もちろん、発音も違うのです。私はずっと後年になって、この当たり前のことに気づきました。これを説明するには、『シャ』と『チャ』の区別を考えるのが一番わかりやすい。これを記号で書くと『ʃ 』と『ʧ 』。『ʃ 』は日本語の『シャ』『シ』『シュ』『シェ』『ショ』の音と大体同じです。それらの前に『t』がついて『チャ』『チ』『チュ』『チェ』『チョ』となります。イギリス人やアメリカ人が『ʃ 』と『ʧ 』を使い分けるように、私たち日本人は日本語で『シャ』と『チャ』を使い分けていますよね。ところが、これに濁点がついて『ジャ』と『ヂャ』になると区別がつかなくなります。今濁点と申し上げたのは物のたとえで、『有声音』になると言ったのです。有声音とは、声になる音、すなわち声帯を震わせて出す音です。声にならない音、すなわち無声音は震わせないで出す音です。英語の子音『ʃ 』と『ʧ 』は無声音ですが、口の形や舌の動きや位置などは全く同じで、声帯を震わせますと『ʒ 』と『ʤ』という有声音になります。英語では区別をしていますが、日本語では区別をしておりません。日本語の『ジャ』『ジ』『ジュ』『ジェ』『ジョ』の子音は大体英語の『ʤ』の音です。『ʒ 』とどこが違うかと言うと、発音するとき、『ʤ』では舌の先が歯茎につきますが、『ʒ 』ではつきません。ただし、日本語でも単語の途中では『ʒ 』が現れることもありますが、私たちはふつうその差を意識していないのです。(一部加筆修正)」

私も講義の中で、苦し紛れに強いて違いを表現すればと断った上で、『ʤ』の方が若干「湿り気がある音のような気がする」などとかなり無責任な表現をしていましたが、この「湿り気」が「舌の先が歯茎につく」ことだったのですね。(笑)

もう何というか、今までのフラストレーションが一気に解放されたような本当にすがすがしい気持ちにさせられるくらい、本書のこの指摘が私にとってありがたいものでした。

ただ、この説明で長年の疑問が晴れたとはいえ、私(おそらく大部分の日本人も)はその「湿り気」のあるなしを発音し分けることはできません。

残念ながら、これが「英語の完璧な発音には臨界期説は成立する」ことの意味です。

ただ、実際に発音できるできないに関わらず、理屈を受講生にお伝えすることができ、自信をもってその実行を「諦めさせる」ことができるようになったことは大変すばらしいことだと思っています。

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