日本人と英語

英語が世界共通語になったもう一つの理由

2020年8月21日 CATEGORY - 日本人と英語

先日、書籍紹介ブログにてご紹介した「共通語の世界史」からいくつかテーマをいただいて書いていきたいと思います。

第一回目のテーマとは、「英語が世界共通語になったもう一つの理由」です。

「もう一つ」と言うからには、一般に受け入れられている理由があるわけで、それはもちろん、

「英語を母国語とする英国が大航海時代の植民地政策を進め、そしてその後の産業革命を経て一大帝国を築いたことで人々が英語を学ぶモチベーションを高めたこと、そしてその英国の一植民地であった米国が経済・軍事における大発展を遂げて覇権を握った結果、グローバル化が進んだこと」

という「経済的な理由」だと思います。

この事実を多くの人が理由としてあげられることは承知をしていますし、それを否定することはできないと思います。

ただ、英語を教えることを職業にしている私としては、それだけではなく、英語が世界中のどの言語よりも「シンプル」で外国人が習得しやすいという性質を持っているという「言語的な理由」も、かなり有力な理由ではないかとずっと思ってきました。

実際に、私が主宰する「中学三年分の英文法を血肉にする合宿」では、そのことをかなり強調することで、受講者さんのモチベーションをあげることに成功しています。

もちろん、この見方については客観的な指標を基にしているわけではありませんので、私の感覚的な意見にとどまっていることもまた事実です。

そんな中、本書には、英語が「世界の共通語」になりえたもう一つの理由について、私のこの感覚的な意見である「単純である」という指摘にかなり近いと思われる事実を挙げられていましたのでご紹介します。

まず、本書の冒頭で著者は、一つの言語が「共通語」として機能する時に生じる問題について、

「共通語が自分の言葉でないものの立場に立ってみると、それは不公平であり、自分たちの市民生活の状態を悪化させることになる」

として、究極の理想の共通語は、「どの国の国民語ではない言語」であると指摘しています。

以前にこのブログでご紹介したザメンホフの「エスペラント語」のような人工言語は、この指摘に従えば、まさに究極の「共通語」となるべきものかと思いますが、実際には成功したとは言えない状況です。

その上で、著者は現在実質的に世界の共通語となっている英語に次のような性質があることを指摘して、その「どの国の国民語ではない言語」的な側面を説明しています。

「英語はもともと、インドヨーロッパ語族の支流である西ゲルマン語に属するのだが、ゲルマン諸部族は絶えず移動していたので、住民同士の大規模な混淆が起こり、急速に変化した。しかも、ゲルマン人がブリテン島に到達して、すでに現地にいたケルト人を征服したことでケルト語の影響も受けた。その後、北欧のデーン人やノルマン人の征服を受け、北欧語やフランス語から大量の語彙を借用するなどの影響を受け続けることになった。このような歴史を経てきた英語はゲルマン語の中でも最もゲルマン語らしくない言葉、過去の痕跡を最も留めない言葉になった。特に、語活用のバリエーションが極端に切り詰められていくところなどは、東南アジアの言語や中央アフリカの言語を思い起こさせるほどだ。そうしたこともあって、英語は『単純な言葉』であると多くの人に思われているようだ。」

この説明の通り、確かに英語はエスペラント語のように誰かが突然作った「人工語」ではなく、英国の母国語であるれっきとした「国民語」ではあります。

しかし、その歴史をたどってみると、もともとの「ゲルマン語」が様々な言語の影響を受け、「いいとこどり」をしつつ、尚且つ「単純である」言葉に変化を遂げることによって、他のどの国民語よりも「どの国の国民語ではない言語」的な性質を身に着けたと言えるのではないでしょうか。

本書のこの記述によって、私の個人的かつ感覚的なモチベーション向上策を客観的なものに変えていただけたとうれしく思っています。

 

◆この記事をチェックした方はこれらの記事もチェックしています◆