日本人と英語

英語で考えるということ その2

2015年5月17日 CATEGORY - 日本人と英語

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先日、松本亨氏の「英語と私」という著書をご紹介しましたが、その中で「英語で考える=Think in English」という考えを深めるにあたり、「英語と私」に続き、氏の著作「英語で考える」を読むことにしました。

そこで、今回はこの「英語で考える」という著作によってこの考え方について引き続き考えてみたいと思います。

書籍紹介の中でも触れましたが、「英語で考える」ということを可能にするには、日本語で考えることが当たり前な日本人の頭脳に対して、英語でものを考えられるような英語の知識と経験をいかに蓄積していくのかということが問題であるということです。

そして、筆者の答えは「いきなり難しいものからはじめてはいけない。そして、一朝一夕で身につくわけがない。だから、優しい段階から難しい段階まで、兎に角、英語になれる訓練を継続するということ。それが多読。」といういかにも、正論をおっしゃっています。

実際に本書は、そのような「段階的学習」に適した仕組みになっていました。

ここで私は、自分の「中三文法を血肉にする講座」を思いだしました。この講座は、二泊三日の合宿で中学校三年分の英文法のすべてをマスターさせるだけでなく、それを会話にどう結び付けるかという点を徹底的にトレーニングするというものです。

講座のクオリティの高さにはもちろん自信がありますが、ここで最も重要となるのは、各講座のあとに行われるその回までに学習したすべての文法項目を含んだ文章を日本語で作成しそれを英語に直すというものです。

ここでのポイントは、言語におけるつまらない「原則」の繰り返しによって「回路化」するということだと思います。日本の入学試験のように、重箱の隅をつついたような「例外」についてではなく、「原則」を無意識レベルに再生できることができるまで繰り返すということです。

さきほど、「日本語で作成しそれを英語に直す」といいました。もちろん、この段階では「日本語で考えること」が基本となっています。しかし、講座の回が進んでいくにしたがって、次のような発言が聞かれるようになってきます。

それは、「日本文はもう作らなくていいですか?」「むしろ日本語を作る方が英語を作るよりも大変。」と言うようなものです。

これが、まさに「原則」の繰り返しによっていつの間にか英語の作成が「回路化」しはじめたことを意味しているのだと思います。そして、このことがまさに、著者の言う「英語で考える」ことの始まりではないかと思うようになりました。

このように、英語を使うことを繰り返すことで回路を作り、その回路を回すことを「習慣化」することの重要性を松本氏は主張されているのだと理解しました。

 

 

 

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