日本人と英語

日本人の「英語の読めなさかげん」について

2021年5月5日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログにてご紹介した「英語の読み方」からテーマをいただいて書いていこうと思います。

第一回目のテーマは「日本人は英語を読めない」という事実についてです。

書籍紹介ブログでも触れたように、日本人は英語を「読む」ことについては大学受験でやりすぎるくらいやっていると誰しも思いがちですが、実はその感覚は単なる「錯覚」に過ぎないと著者は言っています。

そして、この「錯覚」は「読む」ことに対する基準と「聞く」ことや「話す」ことに対する基準が全く異なることから生じているとのことです。

以下に、この事実について言及している部分を引用します。

「例えば、大学入試の長文問題を制限時間内に解き、正解率が高かった人はその長文が読めたと感じるでしょう。これ自体は間違いではありません。しかし、英語話者の読解スピードと言われる『1分間に200語(センター試験のすべての英文を20分強で、語数の増加が話題になった共通テストの英文でも約30分で読み終えるスピード)』という基準からみると、大半の人はおそらく半分以下(場合によっては三分の一の以下)のスピードでしか読めていないと思います。これを『読める』とするのであれば、ニュースの報道や映画のセリフを半分以下の速度、三分の一の速度で言ってもらえれば聞き取れる、という状態も『聞ける』とみなさなければなりません。」

本書のこの指摘を受け、私はアメリカ留学時代の授業の課題の分量に苦しんだことを思い出しました。

アメリカの大学では基本的に教科書として定められたテキストのうち指定された部分(例えば一章ごと)を読んでくることをアサイメント(宿題)され、その内容をクラスの皆が分かっていることを前提に議論する形式で授業が進んでいきます。

一章ずつというと大したことなさそうですが、毎週、すべての教科で一章ずつというのは日本語でならまだしも私にとっては外国語である英語ですから非常に大変でした。

ですが、不思議なもので人間は「必要」に迫られるとそれが当たり前になり、「慣れ(習熟し)」ます。

これは、「会話」についてもそうです。

一年もすると「会話」も「読み」も最初のころから比べると圧倒的に向上している自分を発見することができます。

しかし、「必要」に迫られないと、ゼロにはなりませんがかなり元に戻ってしまいます。

特に、日本では英語は「必要」なものではないので、一度戻ってきてしまうと、よほどの精神力がないと継続することが難しいのです。

したがって、英語を仕事にしているとは言え、私自身の今の英語の「会話」と「読み」の力は当時から比べると圧倒的にできなくなっているのは事実です。

本書では、まず日本人一般の「会話」だけでなく「読み」についても「そのできなさかげん」についての自覚を促してくれる非常に厳しくもありがたい内容となっています。(笑)

ただし、英語を学習すること自体が無意味かというと決してそんなことはありません。

なぜなら、上記のように「ゼロにはなりません」し、一度ある程度高いレベルにまで到達した経験があると、どれだけ習熟したらそこまで行くことができるという感覚をつかんいるので再び「必要」になった時、不安なく取り組むことができるからです。

このことを「英語ができる」状態というべきかと思います。

 

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