日本人と英語

英語を使わないほとんどの日本人が英語を学ぶ意味

2019年8月4日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログにてご紹介した「だから英語は教育なんだ」よりテーマをいただいて、書いていきたいと思いますが、第一回目のテーマは「英語を使わないほとんどの日本人が『英語を学ぶ意味』」についてです。

グローバル社会が到来したと言えども、現時点の日本において、本当に英語を使わなければならない日本人は実際のところ全体の1割程度にも満たないと言われます。

ですが、日本ではすべての国民が現在では中学1年から、来年度からは小学校5年生から英語を教科として学ぶ現実があります。

この現実の中で、「なぜ私たちは英語を学ぶのか」という素直な疑問を持つ子供たちに何と答えればよいのかということは実に切実な問題です。

本書にはそのことに対する明確な答えが書かれていました。

「(著者の一人が)離島に英語教師として赴任してみると、そこには口は悪いけれども、気さくでざっくばらんな父母たちが待っていた。『先生、俺は漁師やってっけど、生まれてこの方、一回も英語なんて使ったことないし、これからだって使わねえな。なんで英語なんてやんなきゃなんないんだ』と言われ、慌てて『漁業においても国際化は、、、えー、200海里の時代なので、、、』などとしどろもどろに答えたら、『お役人みたいのこと言ってどうすんのよ』と大笑いされた。『うーん、なんで英語やるの?』と悩んだ。大学受験をする数名を除いて、進学のための受験英語は必要がない。かといって、実用英語を教えても、漁師などになって島にとどまる多くの者にとって、本当に英語を使う機会はあるのだろうか。」

このことに対する一つの答えは以下のようなものでした。

「私は『英語を学ぶことは、もう一つのドアを開けることだ』と説明している。人生を一つの部屋に喩えるなら、普通の部屋には日本語という一つのドアしか開いていない。しかし、英語を学ぶことによって、部屋にもう一つのドアが開き、そこから新しい景色が見え、新しい風が入ってくる。部屋は部屋でもこのほうがはるかに開放的である。仮に日本語のドアが壊れた場合でも、もう一つの英語のドアを通って自由に出入りができる。今日では偉大な指揮者として揺るぎない小澤征爾氏が若かりし頃、その先進性ゆえにN響で総スカンを食らう事態に直面したことがあった。日本だけの視野で見れば、指揮者生命のピンチとも思われたその時、小澤氏はもう一つのドアを開けてヨーロッパに渡り、世界的指揮者への活路を見出した。遂には彼を放逐したN響が三顧の礼を尽くして彼を指揮者として迎えるまでになったのである。」。

つまりは、『学ぶことは精神の自由を獲得すること』ということになります。

言葉は、思考の基礎であるため、日本語だけで考えることは実はその日本語の見方に否が応でも支配されていることになります。

外国語を学ぶということは、それはあくまでも外国語であるため「思考の基礎」にはならなくとも、そのドアから新しいものの見方をのぞき込むことができるようになるということです。

そう考えれば、一生のうちで英語を全く実用的に使用しないであろう「漁師」だろうが、「すし職人」だろうが、「お笑い芸人」だろうが、その人生における視点を増やすことで、より豊かな生き方を手に入れることができるはずです。

英語教師たるもの、この答えを明確にもってその仕事にあたるべきだと思いました。

 

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