日本人と英語

「英語授業学」という学問

2018年2月28日 CATEGORY - 日本人と英語

前回は、「英語は教わったように教えるな」よりテーマをいただいて「戦略的に教える」ことについて考えましたが今回は、その行為を具体化したものともいうべき「英語授業学」についてみてみたいと思います。

この「英語授業学」というのは、若林氏自らが命名し、「教師が授業を行う上で熟知しておくべき知識の総体」として学問化しようと試みた分野です。

つまり、前回記事「教えることは『戦略』そのもの」で指摘した「今当たり前のようにやっていることが生徒の理解にとって最良かどうか」を教師自らが自問自答することでより良い英語教育を作っていくための学問体系だと言えると思います。

本当に素晴らしい視点だと思います。

英語を教える教師に対しては、英語をどこまでも「読み」「書き」「話し」「聞き」できるかを求めるのではなく、上記の戦略の立て方を熟知していることを求めるべきだからです。

つまり、教師は必ずしもよい選手ではある必要はないですが、必ずよい監督であるべきです。

例えば、著者は「動詞」に関して教科書が当たり前のように「be動詞」を「一般動詞」よりも先に教えていることについて疑問を投げかけています。

この姿勢こそ、まさに「戦略的思考」に立脚して英語を教えることの重要性を伝えることだと思います。

特に、英語との言語的距離が遠く離れており「be動詞」という概念自体が母国語にない私たちにとっては、英語と共通する「自動詞」「他動詞」という「一般動詞」を先に教えなければならないのではないかと、その教える順序について真剣に考える姿勢が大切です。

また、言語において「原則」の方が「例外」よりも重要性が高いにもかかわらず、「例外」の暗記にのみに神経を集中させ、「原則」をないがしろにすることで、言語が何のために存在しているのかを理解できない生徒を量産してしまうことの指摘もじつにもっともなことです。

ちなみに、ランゲッジ・ヴィレッジの文法講座では、まさにこの視点から、SV,SVOの順序で、最後にSVCという流れを意図的に作っていますし、三人称単数現在の s の指摘など最初はほとんど気に留めさせずに、現在形の疑問・否定等が十分に血肉になってからあくまでも「例外」として指摘することなど、独自の工夫をしています。

このようなことは、言語の本質をとらえれば当たり前のことなのですが、若林氏がこのようなことを主張するたびに多くの敵を作ってきたことからも分かるように、戦略的思考とは無縁の教え手が多いことに驚かされます。

ましてや、教育は学習者の年齢が低くなればなるほど、その困難さは高まることは当たり前に理解されていなければなりません。

そのため、より低学年に対する授業であればあるほど、その戦略にはより緻密さが求められ、教える人間の熟達度合いも求められるということを知識として知っておくというのも「授業学」の知見の一つです。

そのことを考えれば、小学校英語を英語の「素人」である小学校教師に丸投げしてしまう現在の英語教育について、若林氏が存命であったなら、どれほどの怒りをあらわにされるでしょうか。

怒りをあらわにするということは、そのことに対して真剣に「自分事」としてとらえている証拠です。

怒れる英語教育学者 若林俊輔氏は、「教える」ということについて、教える前に真剣に考えるということを当たり前のことにすることの重要性を人生を通して訴え続けた方だと思います。