日本人と英語

聞く際、読む際に起きていること

2021年5月21日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログにてご紹介した「英語の読み方」からテーマをいただいて書いてきましたが、第六回目の今回で最終回です。

本書を貫く最も大きなテーマは「英語の読み方」であり、ニュースから小説まで幅広い長文についての読み方について実際の文章を利用しながら、短文や話し言葉などとの違い、例えば書き言葉における独特の「倒置」や「省略」など様々な手法を紹介してくれています。

その中で利用されているものの一つにその内容が非常に興味深い文章がありましたので、その文章の内容を取り上げることで最終回のテーマとしたいと思います。

それは、日本人にとっては英語をいくら勉強しても日本語の方が理解しやすい「理由」です。

普通に考えれば、日本人が日本語の方が理解しやすいのは「当り前」と考えられがちですが本当にそれは「当たり前」なのでしょうか。

というのも、目や耳に入ってくる情報として「日本語」と「英語」の二つがあったとして、それらの中に自分が理解できていない単語が一つもないという条件を付けた場合にも、それらを読んだり聞いたりしたときに圧倒的に私たち日本人にとっては日本語の方が理解しやすいのですが、私たちが日本人であることがそれを「当たり前」と言ってのけられることへの合理的な理由にはなり得ないような気もします。

その合理的な理由が本書における実例文の中に書かれていましたので少し長くなりますが、以下にその英文と日本語訳を両方引用します。

「For example, when we listen to a person speaking or read a page of print, much of what we think we see or hear is supplied from our memory. We overlook misprints, imagining the right letters, though we see the wrong ones; and how little we actually hear, when we listen to speech, we realize when we go to a foreign theatre; for there what troubles us is not so much that we cannot understand what the actors say as that we cannot hear their words. The fact is that we hear quite as little under similar conditions at home, only our mind, being fuller of English verbal associations, supplies the requisite material for comprehension upon a much slighter auditory hint. 

William James (1899) Talks to Teachers 

[訳] 例えば、人が話しているのを聞いたり印刷されたものを読んだりする時、見たり聞いたりしていると思っているもののかなりの部分が記憶から補われて います。誤植を見落とすのは誤った文字を見ているのに正しい文字を想像してしまうからです。そして、話を聞く時に、実はいかに聞いていないかについては海外の劇場に行けば分かります。というのも、そこで問題になるのは役者たちが言っていることが理解できないということではなく、むしろ、言葉が聞こえないということだからです。実は自国でも同様の場面では同じくらい聞こえていません。ただ、私たちの頭には英語(母国語)に関する連想がより豊富に蓄えられているので、はるかに少ない聴覚情報からも理解に必要となる部分を補えてしまうのです。 」
 
この文章で明らかにされているのは、
 
そもそも人間の目や耳は、母国語でも外国語でもそのすべてを即座に取り入れることができるほど研ぎ澄まされた能力を持っていないということ。
 
にもかかわらず、母国語ではほとんどすべてを理解することができ、外国語ではそれができづらいと思っているのは、実は目や耳の能力の問題ではなく、すでに頭の中にある母国語のデータベースと外国語のデータベースの量の違いにあるということです。
 
この文章は、単なる実例にすぎませんでしたが、その内容は非常に腹落ちするものでした。
 
そしてこの文章のみならず、本書に書かれたその実例文一つ一つが、私たちにとって外国語(英語)のデータベースを確実に増やすことに役立っていることを確信させ、外国語学習とはまさにそれを地道に行うことであるということを再確認させてくれるものでした。
 
 

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