日本人と英語

お酌は「個」への侵害

2021年10月16日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログにてご紹介した「英語の思考法」からテーマをいただいて書いていますが、第三回目のテーマは「お酌」の習慣についてです。

第一回目で、本書が「英語は日本語と違って直接的な言葉だ」という私たち日本人にとっての当たり前ともいえる「定説」を「俗説」として否定していることをご紹介することで、「英語の思考法」としての相手の「個」の尊重という観点を確認しました。

本書では、その観点から、欧米人が「ギョっ」としてしまう日本人の習慣としてこの「お酌」をあげていますので以下にその部分を引用します。

「日本では宴会などで目の前で目上の人のビールのグラスが空いていれば黙ってつぎ足すのが普通だ。さもなければ『気の利かないやつ』と思われかねない。もちろん『どうぞ』くらいは言うこともある。グラスが空になっているということは、もっと飲むであろうという前提に(勝手に)立つ。立つのが礼儀である。ところが、英米文化には、この習慣はない。相手の独立した願望を(勝手に)推し量って前提とするのは相手の領域に入り込むことになるからだ。ついであげるなら『More beer?』と尋ねてから注がないと、相手の心の声は『わー、怖い、こいつ俺のグラスにまで入り込んでくるぞ!』ということになる。」

正直申し上げて、私自身もこの「お酌」の習慣について年をいくつ重ねても完全にはしっくりきません。

著者は「ついであげるなら『More beer?』と尋ねてから注がないと」と言っていますが、これさえも欧米人は嫌がると思います。

なぜなら、もっとビールを飲みたいかどうかは自分が一番知っているわけで、仮に飲みたい場合であっても「自分でつぐ」ことの労力は全く大したものでなく、他人にやってもらうことで何か「いいこと」はほぼないからです。

つまり、「お酌」という習慣があることは知ることができても、その行為が自分への「思いやり」だと言われても自分は全くうれしくないから、その習慣が何のためなのか、その意味が最後まで分からないだろうなと思うからです。

私がいくつになっても「お酌」に対してしっくりこないのは、若いころにアメリカ留学を経験することで欧米の「個」の尊重の文化に触れる経験をしたことと無関係ではなさそうです。

著者は以下のように続けます。

「英語でのコミュニケーションは、相手の『個』と『独立』を尊重し、配慮するということを前提としている。実際に、このことを基盤とした表現群は、どちらかというと間接的だ。これは他の多くのヨーロッパの言語と比較しても際立った英語の特徴である。」

どんな言語でも配慮は「論理」によって行われるというのが一般的な理解でしょう。

「配慮」と言われても、そのことによる「いいこと」が何かを論理的に説明できないものは、どれだけ気持ちを込めてもやはり理解されないのだと思います。

というか、日本人でも理解してやっている人って本当はどれくらいいるのでしょうか、知りたいです。

 

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