日本人と英語

国際英語とネイティブ英語

2020年1月5日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログにてご紹介した「わたしたちの英語」から、いくつかテーマをいただいて書いていきたいと思いますが、第一回のテーマは「国際英語とネイティブ英語」です。

このブログにおいても、現代グローバル社会における英語の存在は、英語を母国語とする人たちのための「ネイティブ英語」としてだけではなく、母国語を英語としない人同士の共通語としての「国際英語」としての意義が大きくなってきているという話は何度もしてきました。

しかし、本書においては、母国語を英語としない人同士の共通語としての「国際英語」の存在意義がもはや「ネイティブ英語」としての存在意義を超えてしまう勢いで大きくなってきていることを指摘されています。

以下その部分を引用します。

「今、英米人には皮肉な現象が起きているようです。『国際英語』にうまく適応できない場合があるのです。どうやら、『本場の』英語が不利になることがあるのですね。20世紀まではクイーンズ英語やハリウッド英語が世界的にもてはやされたかもしれませんが、人と情報が自由に往来する今世紀では、英語が国際舞台で自由に改変されているために、ネイティブスピーカーが適合しにくい英語環境が表れているというわけです。母語に胡坐をかいているうちに周りの状況が一変したと言っていいかもしれません。『私は米国人ビジネスマン。世界では誰もが英語を話すと思っていた。いざ海外に来てみたら、確かにみんな英語をしゃべっている。しかし、現地の同僚も取引先も自分の英語を理解してくれない。』ということが現実に起きています。」

そして、次の衝撃的なエピソードが極め付けです。

「シカゴで国際学会の準備会議を開いた時のこと。米国、アルゼンチン、フランス、中国、日本から五人の学者が英語で打ち合わせました。会議後の懇親会で、米国人が途中退席してから、ある学者の一言で急に盛り上がりました。『あの米国人の英語が一番分からなかったね。』」

国際英語が使用されるグローバル社会においては、様々な国の人が、少しずつ「遠慮(自分の意志をうまく伝えるための配慮)」をしながら英語を話すという姿勢が必須となります。

この姿勢を保つことはもはやグローバル社会における必須スキルであることから、自分の英語は「本場の」英語であるため相手が理解をして当たり前だと思って我が物顔で話す「ネイティブ英語」の評価が低くなるのは当然かもしれません。

「英語は誰ものか」

現代が、このことを真剣に考える必要がある時代であることは間違いありません。

 

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