すいません、ほぼ日の経営
2019年10月27日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
以前に、お金に関する本を紹介するシリーズの中で「ほぼ日」の糸井重里氏とお金の神様と呼ばれた故 邱永漢氏の対談を収めた「お金をちゃんと考えることから逃げ回っていたぼくらへ」をご紹介しました。
その本の中で邱永漢氏は企業を上場させることについて、「自分の作品である事業に他人のお金を入れてその運営に口を出されることを認めること」だとして、自分の事業に思い入れがあり、その事業の中で成長が可能であるならば、上場なんてするものではないと主張されていました。
それに対して、糸井さんは本書の出版された2001年の時点では、この邱永漢さんの言葉に全面的に同意されており、糸井さんの生き方自体もそのような考えを裏付けるようなものであったように思います。
それが、2017年3月16日に糸井さんは自らの個人事務所であった「株式会社ほぼ日」をジャスダック市場に上場しています。
このことは、彼の今までの生き方やこの本の中でのやり取りと一致しないような気がずっとしていました。
そんな中、昨年「すいません、ほぼ日の経営」という本を本屋さんで見つけ、その中に「ほぼ日と上場」という章があるのに気づき、即購入し、読んでみました。
糸井さんは、自らの会社の上場について以下のように述べています。
「僕らはほぼ日でいろいろなことに取り組んでいく中で、人には伝えることができないと思っていたことを半分くらい伝わったチームと一緒に働くのはものすごく楽しいぞと実感できるようになりました。ですから無理に大きな会社にはならなくていいとも思っていました。ですが、同時に『どこか違うんじゃないの』と僕の中で何かがとげのように引っかかるようになったんです。その正体を探ったら、それは僕らの会社の事業のサイズが小さいということでした。結局は波の荒い大海原に出ることより、湖の中で何とかしようとすることが当たり前になっていた。それではだめだと感じるようになっていた。そう思ったとき、ほぼ日はとても自由そうに見えるけど、膨大な不自由が隠れているのかもしれないと気が付いた。僕たちが享受していた自由は単なる『子供の自由』かもしれないと。(一部加筆修正)」
なかなか、この糸井さんの言葉の解釈は難しいなと思ったのですが、子供は子供の時自分は自由だと思っていても、子供は大人であることを経験していないので、その自分が自由だと思っていることは実は膨大な不自由さの中にいることに気づいていないからそう思っているだけだということなのかもしれません。
そうすると、糸井さんをはじめとするほぼ日の人たちは、「大人の階段」を登ってしまって、その不自由さに気づいてしまったということになるのでしょうか。
この解釈を裏付けるような糸井さんの次の表現を引用します。
「それはジェット機に乗ってどこへでも行ける時代に徒歩だけでやっている感じ。大切なのは『ジェット機にも乗れるけど選ばないで徒歩を選んだだけです』というサイズ感を持ちたいと思いました。そのほうが、僕も含めて心の底からやりたいことが現れたときに自由になれる気がしたんです。」
糸井さんがかつて上場なんて考えられないと邱永漢さんの考えに賛同していた時のほうが、私の感覚としては近いと思っていましたが、う~ん、この糸井さんの言葉を聞いて分かったようなわからないようなという感覚は否めません。
ただ、それは私自身が「大人の階段」の下にいてそれを理解できる段階にないからのはずです。それは、かつて邱永漢さんに全面同意されていた糸井さんご自身がそうであったように。
ということで、今回は不完全燃焼感がかなり大きいですがそういったことにしておきたいと思います。