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「ん」日本語最後の謎に挑む

2025年6月18日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

前回まで「日本語の発音はどう変わってきたか」の中で日本語の発音の変化のプロセスを概観してきたわけですが、その中で現在の日本語に存在している「『ん』という表記は中世以後に初めて現れるので上代の日本語には存在していなかった」(「平安時代の日本語の発音について」を参照)という驚くべき事実を知りました。

それを知った際、長らく積読状態になっていた「ん 日本語最後の謎に挑む」という本があったことを思い出し、読んでみました。

「しりとり」では「ん」で終わる言葉を行ったら負けになります。

その理由は、そもそも現代日本語においても「ん」で始まる言葉は存在しないからです。

なるほど、「ん」は五十音図の左端に一文字だけ孤立しておかれ、母音なのか、子音なのかという区別もされていません。

ちなみに、1982年に出版された「新編 大言海」という国語辞典には次のような説明書きがあります。

「コノ仮名ノ声ハ、他ノ音ノ下ニツキテ鼻ニ触レテ撥ヌルガ如クシテ出ヅ」*撥ヌ(はぬ)=跳ね上がるの意

外来語を片仮名で表示するには「ン」が不可欠であるのは言うまでもありませんが、「天秤」「簡単」「混乱」などの漢語にも「ん」が少なからず存在することを考えると、本来日本語に存在していなかった「ん」は、日本語において漢語を扱うようになったからこそ、必要性が生じ、そこで初めて「発明」されたのかもしれないという前提で本書は始まり、日本語の歴史の中のどの時点でそれが発明されたのかというのが本書の大きなテーマとなります。

まず、最も古いとされる日本語の書物の一つである「古事記」は奈良時代に大安万呂(おおのやすまろ)が献上したとされていますが、「ん」と読む仮名が一度も出てこないのです。例えば、「必不善心」という漢語があったとしても「不善(ふぜん)」のような音読みではなく「かならず、うるわしきこころならじ」と和語で読み下しています(それを読む下すために「万葉仮名」を使用して)。

日本語の音を漢字に落とし込む「万葉仮名」には「ん」を書くための文字は存在していなかったとしても、(中国語としての)漢字の発音には例えば、「損(suan)」「経(jing)」などのように「n」の音はありました。

平安時代初期には、これらの漢字に対して訓読が始まりましたが、「損」を「ソイ」「経」を「ケイ」というように振り仮名を振っていたことが分かっていますが、これはまさかこの通りに「イ」と読んでいたとは考えられず、「ん」が存在していない中での「n」の発音を示す記号として使っていたと考えられます。

*中国語を学ぶときに「経(ケイ)」の発音を「jing(ジン)」と読むように習うわけですが、「損」の発音「suan」などに比べ、似ても似つかない全く別の発音に大いに戸惑いましたが、これは当時の日本側の受け入れ方の問題だということが分かりました。

また、「恨」を「コニ」というように振り仮名を振っていたことが分かっていますが、これも「ん」が存在していない中で「n」を表すために「ニ」を代用したと考えられます。

*カタカナで「イ」や「ニ」のように書いていますが当時はまだ片仮名は存在していませんので当然ですが「爾(ニ)」などの万葉仮名です。

そしてもうひとつ、「鮮」を「セレ」と書かれているものがありますが、これは片仮名の「レ」ではなく、「ング(発音記号のŋ)」の音を表すただの記号として使用しています。

このように他の文字を代用もしくは記号を使用を続けてきたものの、記号の使用は別にしても、当然ですが「イ」を使うと「i」、「ニ」を使うと「ni」と読み間違って読まれる可能性が出てきます。間違って読まれないための記号はないかと試行錯誤した結果、ついに平安時代末期、「ん(ン)」が生まれたということです。

そして、「平安時代の日本語の発音について」の記事で見たように、撥音便:「積みて」→「積んで」、「何そ(なにそ)」→「なんぞ」(mやnの直後の母音が脱落)という発音の変化が生じ、これなどは、今までは漢語の発音に必要だったにすぎず、日本語後の体系の中には存在していなかった「ん」がその体系の範疇でさえも必要となっていったと考えられます。

最後に「ン」「ん」というかつては存在していなかった文字がどのようにしてできたかを見て終わりにしたいと思います。

片仮名の「ン」ですが、これは前出の「ング(発音記号のŋ)」の音を表すただの記号「レ」が変形して「ン」の形に定着したのが1100年頃というのが有力な説です。

一方で、平仮名の「ん」が初出するのが1120年に書写された「古今和歌集」においてです(ここでの「ん」の発音は現代の「む」の可能性が高く、「ん」の発音の可能性が高くなるのが平安末期で、その後、「平家物語」などの軍記物において本格的に「ん」が明確に「ん」の音として使われるようになっていきました)。

ちなみに、本書では「ん」の元がどんな文字だったのかの明確な言及はなかったので、調べましたら「無」と同字の「无」という漢字を崩して作ったもののようです。

本書のおかげで、知られざるも深い「ん」の謎解きを十分に楽しむことができました。

 

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