
アメリカのもう一つの顔
2025年5月2日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
先日の「歴史は本当に繰り返す」の記事にて、アメリカにおけるトランプ大統領の大学への締め付け問題に関して私は以下のような感想を書きました。
「このような『文化大革命の再来』とでもいうべきことが、まさか人類の発展を近代に入ってからずっとけん引してきた(と思われている)アメリカにおいて起こるなど、だれが想像したでしょうか。」
これは、中国で起こったことがアメリカでも起こったことへの驚きという文脈で書いたのですが、昨日(2025年5月1日)のNHKの番組(再放送)、「映像の世紀バタフライエフェクト」を見て、実際にはアメリカ国内においてそれに近いことが何度も繰り返されてきたことであるという事実を知りました。
つまり、アメリカの歴史を振り返ると、
以下に、番組において紹介されたアメリカにおける分断の歴史をまとめます。(私の方でより詳しく調べたことも加えて書きます。)
そもそもアメリカという国は、イギリス国教会の改革を唱えたために弾圧を受けた清教徒(ピューリタン)たちが、信仰の自由を求めて1620年にイギリスからメイフラワー号でアメリカ東海岸渡ってきたことから始まるという、もともと宗教性を帯びた国だという前提があります。
この分断の中心には常に「福音派 (特に白人福音派)」の存在がありました。
「福音派」とは、キリスト教の保守的な信仰理解を持つ(聖書の教えに忠実)プロテスタントの人々のことを指しますが、その意味では、彼らこそイギリス国教会の改革を求めた清教徒(ピューリタン)の正統なる後継者とみることができるかもしれません。
彼らは、政治に大きな影響力を持っていることは、彼らが現在のトランプ大統領の支持層であることからも明らかになっています。
保守的な信仰理解とはすなわち、聖書に書かれていることに文字通りに従うことを旨として、公民権運動に反対し、公立学校の人種混合化や男女平等の運動を認めない立場をとってきました。
まずは、「進化論裁判」についてです。
上記のように宗教性を帯びたアメリカにおいては、人間は猿から進化したという「進化論」の考え方が、神が人間を創造したという前提にそぐわないとする反キリスト教的理論が広まることを阻止するためアメリカ各州に公立学校教育の場で進化論を教えることを禁止する法律がつぎつぎと成立していきました。
これらの動きの中心になっていたのが「福音派 (特に白人福音派)」です。
テネシー州でもそのような法律が存在し、公立の高校の理科の授業で進化論について教えたジョン・スコープスが逮捕・起訴され、この裁判は「モンキー裁判」として全米の注目を集めることになりました。
番組ではスコープスは有罪となり、罰金100ドルが科せられたということで終わっていますが、この裁判の歴史的意義としては、問題は進化論教育が行われたかどうかではなく、「聖書の正しさを主張する検察側と進化論の正しさを主張する弁護側のプロパガンダ合戦」となったことでした。
この裁判以外にも、進化論に関する裁判は様々ありましたが、最終的には1987年に連邦最高裁判所が、反進化論のルイジアナ州法に違憲判決を下したことで進化論裁判は終結することになります。
続いては、「福音派 (特に白人福音派)」による大統領選挙への影響力の増大について
彼らは上記の「進化論」の問題のような生活習慣や考え方に関わるような事柄には最初から積極的に関与していましたが、政治に関しては比較的距離を置き、信仰活動に集中していましたが、福音派(バプティスト)の家庭に育ったジミー・カーターが民主党の大統領候補となった際、福音派の雑誌や出版社が彼の選挙活動への協力をすることで当選へと導くことになりました。
すると、当然ですが福音派は大統領となった彼に福音派的な行動と政策を求めます。
しかし、彼は福音派ではありながらも、個人的には進歩的な部分をもちあわせており、政治的にバランスをとることを選択したのです。
具体的には、「ホワイトハウスで宗教儀式を執り行わない」「福音派の私立学校が差別的教育を行った場合の免税資格剥奪」など、政教分離政策を進め、福音派の意向に全面的に従うことを拒否しました。
これに福音派の人々は彼に失望し、次の大統領選挙では福音派の家庭出身のカーター(民主党)ではなく、もともと宗教にはあまり熱心ではなかった共和党のロナルド・レーガンを応援することとなり、レーガンは選挙期間中、自分の信条とは無関係に福音派の求めに寄り添うことで、圧倒的大差でカーターを下して大統領になりました。
この成功体験が、当時の共和党にとって強烈な教訓となり、そこから共和党と福音派の蜜月関係が始まり、現在のトランプ政権成立にまでつながっていると言えるのです。
このようにアメリカの歴史を振り返ると、実は現在起こっているような「分断」はトランプだからこそ起こった特殊なものではないということが分かりました。
アメリカは、ほとんどの期間において保守的な「神の国」であって、多様性に寛容な「自由の国」であるというイメージは、ついこの間までの一時的なものだったと捉えるべきなのかもしれません。
タイトルにある「もう一つの顔」のほうが、本当はずっと年季が入っているのかもしれません。